孤独のすすめ 五木寛之著
Gemini要約
7月に詠んだ、五木寛之著「孤独のすすめ」も、Geminiで要約をしてみました。
自分の要約と、Gemini要約では、かなり違うことが分かりました。
やはり、自分が感じた要約の方が、いいと思いました。
しかし、読むのがつらい積読本には、Gemini要約は最適ですね。
「遊行期」の、林さえも離れ、定住地を持たずに、無一文になって放浪し、天命に委ねよ。
人生の最終章、非常に勉強になる本でした。
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孤独のすすめ 五木寛之著 |
五木寛之著 「孤独のすすめ」
■ 「はじめに」
五木寛之著「孤独のすすめ」の「はじめに」では、人生の後半をどのように生きるべきかについて、著者の深い洞察が示されています。
「減速して生きる」という提唱
著者は85歳を前に、高齢化社会における生き方を考察し、「シフトダウンして生きる」、つまり人生の速度を落とすことの重要性を提示しています。これは、慌ただしい現代において、意識的にペースを落とし、自分自身の内面と向き合う時間を持つことを促しています。
「諦める」の再定義
一般的な「諦める」という言葉のネガティブな意味合いを覆し、著者は「明らかに究める」あるいは「覚悟する」という意味で用いています。これは、人生の現実、特に老いや限界を受け入れ、それを深く理解し、あるがままに生きる姿勢を強調しています。
「人生の下山期」の肯定
老いを単なる衰えとして捉えるのではなく、「人生の下山期」と表現し、この時期だからこそ見えてくる風景や得られる気づきがあることを示唆しています。下り坂だからこそ味わえる豊かさや、これまでとは異なる視点から人生を見つめ直す機会が与えられると述べています。
孤独と自己受容
著者が若かりし頃に抱えていた「人間として許されざる者」という罪悪感と、親鸞の言葉との出会いが語られます。この出会いを通して「とりあえず、自分も生きていくことが許される」と感じた経験が、孤独を抱えながらも自分を受け入れ、生きることを肯定する姿勢につながっています。親鸞は、現代を生きる人々が感じる「私は間違っているのではないか」という根本的な問いに対し、孤独に寄り添う存在として描かれています。
現代社会の矛盾
科学技術や医療の発達により、平均寿命が延び、物質的な豊かさや安全性が増した一方で、現代は「生きにくい」世の中であるという認識が示されています。この矛盾こそが、個々人が孤独と向き合い、内面を豊かにすることの必要性を高めていると訴えかけています。
「はじめに」は、人生の後半を「老い」や「孤独」というテーマを通して、いかに豊かに、そして自分らしく生きるかについての、著者の経験と哲学が凝縮された導入となっています。
■ 第1章:「老い」とは何ですか
五木寛之著「孤独のすすめ」の中の「老いとは何か」の章は、一般的な「老い」のイメージを覆し、多角的な視点からその本質を問い直す内容となっています。
老いの避けられなさと向き合い方
著者はまず、老いが誰にでも平等に訪れる避けられない現実であることを強調します。しかし、単なる衰えとしてではなく、どのようにその現実を受け入れ、向き合っていくかという姿勢が問われていると述べます。老いることをネガティブに捉えるのではなく、むしろ人生の最終段階における「成熟」のプロセスとして捉え直す視点が提示されます。
「上り坂」から「下り坂」への転換
人生を山登りに例え、若い頃や現役時代を「上り坂」と位置づける一方で、老いは「下り坂」であると表現します。しかし、この「下り坂」は決して後ろ向きな意味合いではなく、上り坂では見えなかった景色や、上りきったからこそ得られる視点があることを示唆します。頂上からの眺めのように、人生の全体像を俯瞰できる時期であり、新たな発見や深い思索が可能な時であると説いています。
世間的な評価からの解放
老いとは、社会的な役割や生産性といった、世間的な評価基準から徐々に解放されていく過程でもあります。現役時代は常に「役に立つこと」や「成果を出すこと」が求められますが、老いることでそうしたプレッシャーから解放され、より自由に、自分自身の内面と向き合う時間が与えられると述べます。
死への準備としての老い
老いは、避けて通れない「死」へと向かう準備期間でもあります。しかし、それは絶望的な意味合いではなく、残された時間を意識することで、より深く、より充実した生を生きようとする意識が芽生えることを示します。生と死が分かちがたく結びついていることを認識し、死を受け入れることで、逆説的に生が輝きを増すという仏教的な思想も根底に流れています。
孤独を受け入れることの重要性
老いとともに、社会とのつながりが希薄になり、必然的に「孤独」の時間が多くなることに触れます。この孤独を恐れるのではなく、むしろ積極的に受け入れ、自己を見つめ直す貴重な機会と捉えることの重要性を説いています。孤独な時間こそが、本当に大切なものを見極め、精神的な豊かさを育むための土壌となると主張します。
「無用の用」の思想
老いて社会的な「用」をなさなくなったとしても、その存在自体に意味があるという「無用の用」の思想が示唆されています。無用に見える存在でも、内面的な豊かさや経験、知恵は残り、それが周囲に良い影響を与える可能性を秘めていると述べています。
この章では、老いを単なる身体的な衰えや社会からの引退としてではなく、人生の最終章を豊かに生きるための新たな局面、あるいは精神的な成熟の機会として捉え直す視点を提供しています
■ 第2章:「下山」の醍醐味
五木寛之氏の著書『孤独のすすめ』における「下山」の醍醐味は、人生の後半、特に老いを「山を下る」ことに例え、その時期をいかに豊かに生きるかを説いています。
●老いの受容と新たな生き方
「下山」は人生後半のメタファー
人生を山登りに例えるならば、「下山」とは肉体的な衰えや社会との関わりの変化が訪れる老齢期を指します。多くの人が「登る」こと(成長、達成、現役での活躍)に重きを置く中で、五木氏は「下山」という時期の重要性と、その時期ならではの豊かさを強調しています。
孤独の肯定と受容
老いとともに訪れる孤独を恐れるのではなく、むしろ肯定的に受け入れることが大切であると説きます。体が思うように動かなくなったり、外出が難しくなったりして、寂しさや不安を感じることもあるかもしれません。しかし、五木氏は、歳を重ねるほどに「孤独」だからこそ豊かに生きられるという境地に至ることを示唆しています。
「諦める」ことの真意
「諦める」という言葉は、一般的に「希望を捨てる」という意味で使われがちですが、本書では「明らかに究める」という本来の意味で捉えられています。つまり、老いという現実をはっきりと認識し、それに抗うのではなく、ありのままを受け入れることで、新たな生き方や価値観を見出すことができるとしています。
回想の重要性
人生の「下山」期においては、「昔はよかった」と過去を振り返る「回想」が、喜びと満ち足りた時間をもたらす重要な要素となります。これは単なる懐古主義ではなく、過去の思い出を咀嚼し、そこから得られる気づきや癒しを通じて、現在の生を豊かにすることを示しています。読書もまた、著者との一対一の対話を通じて、心を豊かにする友となると説かれています。
「嫌老感」への問題提起
「下山」の思想は、超高齢社会における「嫌老感」(老人に対する否定的な感情)の問題にも触れています。年配者が社会に貢献することの重要性や、世代間の相互理解の必要性を提起し、社会全体が「下山中」であることを認識し、賢く成熟していく意識を持つことの重要性を説いています。
新しい高齢者の生き方
本書は、既存の「元気な高齢者は働きましょう」「社会に貢献しましょう」といった、ともすれば若者と同じような「積極的」な生き方を求める風潮に対し、別の視点を提供します。老いに伴う心身の変化を穏やかに受け入れ、自立した生き方を心がけ、過去の回想を通して心の癒しを得るという、新しい高齢者の生き方を提唱しています。
五木寛之氏は、『孤独のすすめ』の中で、人生の終盤を単なる衰退と捉えるのではなく、「下山」という表現を通じて、その時期ならではの深い意味と豊かな可能性を提示しています。
■ 第3章:老人と回想力
五木寛之氏の著書『孤独のすすめ』における「老人と回想力」の章では、人生の後半、特に老齢期において「回想(記憶をたどること)」が持つ意味と、それがもたらす心の豊かさについて深く掘り下げられています。
●過去が与える豊かさと癒し
回想は老人の特権であり、心の宝物
五木氏は、老齢期に差し掛かると、新しい経験や刺激を求める「前方へのベクトル」よりも、過去を振り返る「後方へのベクトル」が強くなることを指摘します。これは決して退行的なことではなく、むしろ老人だからこそ味わえる特権であり、心の豊かさにつながる行為であると説きます。過去の記憶をたどることは、その人自身の生きてきた証であり、何物にも代えがたい「宝物」となるのです。
回想による心の癒しと安定
人生には、辛かった出来事や悲しい別れなど、様々な経験があります。しかし、時間を経てそれらを回想することで、当時の感情が浄化され、心が癒される効果があると語られています。また、回想は、現在の不安や孤独感を和らげ、精神的な安定をもたらす力があります。過去の自分を肯定し、様々な経験を受け入れることで、より穏やかな気持ちで現在を生きられるようになるのです。
回想の多様性と深み
回想は、単に事実を思い出すことだけではありません。五感を通して過去を呼び起こすこともあります。例えば、昔聴いた音楽、ある場所の匂い、食べたものの味などが、遠い記憶を鮮やかに蘇らせることがあります。このように、五感を使った回想は、より深いレベルで過去と繋がり、その時の感情や雰囲気を追体験させてくれます。
回想と読書の関連性
五木氏は、読書もまた、広義の「回想」に通じる行為だと捉えています。本を読むことは、著者の人生や思考、あるいは物語の中の登場人物の経験を追体験することであり、それはあたかも自分自身の過去を追体験するかのような感覚をもたらします。特に、若い頃に読んだ本を読み返すことは、当時の自分と現在の自分を重ね合わせ、新たな発見や気づきを得る「二重の回想」となります。
回想は生きる意欲の源
老齢期に入り、社会的な役割が減少し、孤独を感じやすくなる中で、回想は生きる意欲を保つための重要な要素となります。楽しかった思い出、成功体験、乗り越えてきた困難など、過去の様々な出来事を振り返ることで、自分自身の人生の価値を再認識し、自信を取り戻すことができます。これは、来るべき「死」を意識しながらも、今を豊かに生きるための心の支えとなるのです。
孤独な時間の活用
「孤独のすすめ」の全体テーマとも重なりますが、回想は一人で過ごす時間にこそ深く味わえるものです。五木氏は、テレビやインターネットなどの刺激的な情報から一時的に離れ、静かに自分と向き合う時間を持ち、心ゆくまで回想に浸ることを推奨しています。その時間こそが、人生の深みと豊かさを再発見する貴重な機会となるのです。
この章では、五木寛之氏が、単なる過去の振り返りではなく、回想が持つ深い精神的な意味と、それが老人の心にもたらす多大な恩恵を丁寧に説いています。
■ 第4章:「世代」から「階級」へ
五木寛之氏の著書『孤独のすすめ』における「『世代』から『階級』へ」の章は、現代日本社会、特に高齢化が進む中で生じている、世代間の分断や対立の根底にある問題意識を深く掘り下げています。単なる「世代間ギャップ」として片付けられがちな問題が、実はより根深い「階級」の問題へと変質しつつある、という五木氏の考察が展開されます。
●高齢化社会の新たな分断
「世代論」の限界と「階級論」への移行
かつて、社会の分断や対立は主に「世代」の違いとして語られることが多かったと五木氏は指摘します。若者と高齢者の価値観の違い、経験の違いなどが「世代間ギャップ」として認識されていました。しかし、五木氏は、現代の高齢化社会において、この「世代論」だけでは捉えきれない、より深刻な分断が進行していると警鐘を鳴らします。それが、経済格差や社会的な地位による「階級」の分断です。
高齢者内部の多様化と格差の拡大
高齢者と一括りにされがちですが、実際にはその経済状況、健康状態、社会的なつながりなどは非常に多様化しています。年金受給額、資産の有無、持ち家の状況、医療費負担能力などによって、高齢者内でも豊かな層と貧しい層、社会と積極的に関われる層と孤立を深める層とに二極化が進んでいます。五木氏は、このような高齢者内部の格差こそが、もはや「世代」という緩やかな枠組みでは捉えきれない「階級」の問題として顕在化していると論じます。
「嫌老感」の背景にあるもの
若者層から高齢者層への「嫌老感」が増している背景にも、この「階級」の問題が横たわっていると五木氏は示唆します。例えば、社会保障費の増大や、若者の雇用が不安定な中で、一部の裕福な高齢者が「既得権益」を享受しているように見えることへの不満が募り、「世代」というよりも「富める高齢者」対「貧しい若者」という「階級」的な対立構造が生まれている可能性があると分析します。
「下山」という視点での社会
五木氏は、日本社会全体が「山を登る」成長期から、「山を下る」成熟・衰退期に入っているという「下山」のメタファーを、この「階級」の問題にも適用します。社会全体が「下山」する中で、限りある資源をいかに分配し、どの層がその負担を負うのか、という問題がより深刻になります。この資源分配の不公平感が、「世代」間の溝を深め、「階級」的な分断へと繋がっていく危険性を示唆します。
孤独の深まりと階級
経済的・社会的な「階級」の分断は、個人の「孤独」のあり方にも影響を与えます。経済的に困窮し、社会的な支援やつながりから隔絶された高齢者の孤独は、単なる精神的な寂しさにとどまらず、生活基盤そのものに直結する深刻な問題となります。五木氏は、このような「貧困と孤独」という、現代社会の最も困難なテーマの一つをこの章で浮き彫りにしています。
この章では、五木寛之氏が、表面的な「世代間対立」の背後に潜む、経済的・社会的な「階級」の分断という、より本質的で構造的な問題に鋭く切り込み、それが高齢化社会における「孤独」の様相をいかに変えつつあるかを考察しています。
■ 第5章:なぜ不安になるのか
五木寛之氏の著書『孤独のすすめ』における「なぜ不安になるのか」の章は、現代人が抱える漠然とした不安感の根源を探り、それが人生の「下山」期、特に高齢期においてどのように現れるのかを考察しています。
●現代の不安の根源と向き合う
現代社会の慢性的な不安感
五木氏は、現代社会に生きる多くの人々が、明確な理由がなくとも漠然とした不安感を抱えていることを指摘します。これは、かつてのように戦争や飢餓といった直接的な脅威が少ない時代においても、心の奥底に存在する、一種の「慢性病」のようなものとして描かれています。
未来への不確実性
不安の大きな要因の一つとして、未来への不確実性が挙げられます。少子高齢化、経済の停滞、社会保障制度への不信、災害のリスクなど、個人的な努力だけではどうにもならない社会全体の課題が山積しており、これらが個人の未来への希望を霞ませ、漠然とした不安へと繋がっています。特に、老後の生活、健康、介護など、人生の「下山」期に差し掛かる人々にとって、これらの不確実性はより切実な不安の種となります。
情報過多と自己の喪失
インターネットやSNSの発達により、私たちは常に大量の情報に晒されています。しかし、この情報過多がかえって人々の心を疲弊させ、不安を増大させていると五木氏は示唆します。他人の成功や幸福と比較して自己の至らなさを感じたり、根拠のない情報に煽られたりすることで、自分自身の軸が揺らぎ、本来の「孤独」と向き合う機会を失い、不安感が募っていくのです。
死への意識と不安
人生の「下山」期においては、自身の老いや病、そして「死」というものがより身近なものとして意識されるようになります。五木氏は、人間が避けて通れない「死」への恐れや、残されるものへの思いが、老人の不安の大きな部分を占めると考えます。この「死への不安」は、時に孤独感と結びつき、より深く心に影を落とすことがあります。
失われた共同体と孤独
かつて、地域社会や家族といった強固な共同体が存在した時代には、人々は互いに支え合い、不安を分かち合うことができました。しかし、現代社会では共同体が希薄になり、個人が孤立しやすくなっています。頼るべき場所や人がいないという状況は、個人の不安感を増幅させ、孤独をより一層深める要因となります。
不安との向き合い方
五木氏は、このような現代社会に蔓延する不安に対して、闇雲に抵抗するのではなく、むしろその存在を認め、正面から向き合うことの重要性を説きます。不安は人間である限り避けられない感情の一部であり、それを無視したり押し込めたりするのではなく、意識的に受け入れることで、かえって心の平静を得る道が開ける可能性を示唆しています。この章は、不安の根源を深く洞察し、それを乗り越えるための心のあり方を提示しています。
この章で五木寛之氏は、現代人が抱える多層的な不安の根源を分析し、特に高齢期においてそれがどのように個人の心に作用するかを深く考察しています。そして、その不安を完全に払拭することは難しくとも、その性質を理解し、適切に向き合うことの重要性を説いています。
■ 第6章:まず「気づく」こと
「なぜ不安になるのか」の章に続いて、五木寛之氏の『孤独のすすめ』では、「まず『気づく』こと」の重要性が説かれています。この章では、私たちが抱える漠然とした不安や、人生の「下山」期における様々な変化に対し、いかにして意識的に向き合うか、その第一歩としての「気づき」に焦点を当てています。
●自己認識と現実受容の第一歩
不安や変化への「気づき」
五木氏は、多くの人が漠然とした不安や、自身の老いや身体の変化、社会の変化などに対し、無意識のうちに目を背けたり、深く考えないようにしたりしていると指摘します。しかし、それらを放置するのではなく、まずはその存在に「気づく」ことが、問題を認識し、対処するための最初のステップであると強調します。
自己の現状を正確に把握する
「気づく」こととは、自分自身の身体的・精神的な状態、経済状況、人間関係、そして社会全体の動向など、現実をありのままに、そして冷静に把握することを意味します。たとえば、若い頃のような無理が利かなくなってきた身体の衰え、友人との付き合いが減ってきたことによる孤独感、将来への漠然とした不安など、具体的な事柄に対して意識を向けることが求められます。
「諦める」ことへの準備
前述の「なぜ不安になるのか」の章で触れられているように、五木氏は「諦める」ことを「明らかに究める」と解釈します。「気づく」ことは、まさにこの「諦める」ための準備段階と言えます。つまり、現実を直視し、自分がコントロールできない事柄を受け入れるための土台作りとなります。例えば、失われた体力や、すでに過ぎ去った過去の栄光にしがみつくのではなく、それらを「諦め」、新たな生き方へと舵を切るための第一歩が「気づき」なのです。
「孤独」を認識する
現代社会において、たとえ家族や友人がいても、心の奥底で孤独を感じている人は少なくありません。また、年齢を重ねるにつれて、物理的にも精神的にも孤立しやすくなる傾向があります。五木氏は、このような自身の**「孤独」の状態に「気づく」こと**が重要であると説きます。孤独を闇雲に恐れるのではなく、まずはその存在を認識することで、孤独とのより建設的な付き合い方を見つけるきっかけとなります。
未来への漠然とした不安の解消
「気づく」ことで、漠然とした不安が、より具体的な課題へと変わることがあります。例えば、「老後が不安」という漠然とした感情に対し、「年金だけでは生活できないかもしれない」「健康を維持できるか不安だ」といった具体的な点に「気づく」ことで、貯蓄や健康維持のための行動を検討するなど、具体的な対策を講じるための足がかりとなります。
能動的な生き方への転換
「気づく」ことは、受け身の姿勢から能動的な生き方へと転換するための重要なステップです。自分の状況を「理解している」ことで、無闇に悲観したり、他者に依存したりするのではなく、自らの意思で行動を選択し、人生を切り開いていく力を得ることができます。
この章で五木寛之氏は、私たちが抱える様々な心の状態や、人生の変化に対して、まずは意識的に目を向け、その存在を認めることの重要性を強く訴えかけています。この「気づき」こそが、不安を乗り越え、より豊かで穏やかな「孤独」な生を享受するための出発点となるのです。
■ おわりに
「なぜ不安になるのか」、「まず『気づく』こと」といった章を経て、五木寛之氏の『孤独のすすめ』の「おわりに」では、これまで語られてきた「孤独」の概念を総括し、読者へのメッセージとして、来るべき時代を生き抜くための心の持ちようが示唆されています。
●人生の「下山」期を生きる智慧と希望
「孤独」は人生の普遍的なテーマ
五木氏は、「孤独」は人間が避けて通れない、人生における普遍的なテーマであることを改めて強調します。特に、人生の後半、社会的な役割の変化や身体の衰え、大切な人との別れなどを経験する中で、私たちは否応なく「孤独」と向き合わざるを得なくなると述べます。この「孤独」をいかに受け入れ、いかに豊かに生きていくかが、本書全体を通しての問いかけです。
「下山」の道のりとその意味
本書全体で提示されてきた「人生の山を下る」というメタファーを再び持ち出し、それが単なる衰退や終焉を意味するものではないことを再確認させます。むしろ、「下山」の道程こそが、人間としての成熟を深め、自分自身と深く向き合う貴重な時間であると示唆します。これまでの人生で得た経験や知識、そして時に抱えてきた苦悩さえもが、この「下山」の道のりにおいては新たな意味を持ち、心の糧となるのです。
「諦める」ことの再確認
「諦める」という言葉の真意(「明らかに究める」)を再度提示し、それがネガティブな意味での「諦め」ではないことを強調します。人生の後半では、若い頃のように全てを思い通りにすることは難しくなります。しかし、その現実を冷静に見つめ、受け入れることで、執着から解放され、心にゆとりが生まれると説きます。この「諦める」智慧こそが、不安を手放し、穏やかな心で生きていくための鍵となります。
「孤独」との対話
「孤独」は恐れるべきものではなく、むしろ自己と深く対話するための大切な時間であると結びます。社会とのつながりが希薄になったとしても、あるいは周囲に理解者がいないと感じたとしても、自分自身の内面には無限の広がりがあり、そこでこそ真の豊かさや喜びを見出すことができると示唆します。読書や思索、あるいは日々の暮らしの中のささやかな営みの中に、孤独な時間だからこそ見出せる「醍醐味」があると語ります。
未来への静かな希望
「おわりに」では、悲観的なトーンではなく、むしろ静かな希望が込められています。高齢化が進み、社会が様々な課題に直面する中でも、個人が「孤独」を恐れず、自分自身の足で立ち、心の豊かさを追求していくことの重要性が語られます。それは、変化の激しい時代において、他者に流されることなく、自分らしく生き抜くための指針ともなります。
『孤独のすすめ』の「おわりに」は、これまでの章で展開されてきた「孤独」や「下山」の概念を総括し、人生の終盤を生きる人々に対し、不安や恐れを乗り越え、自己の内面と向き合いながら、穏やかで充実した日々を送るための深い智慧と、静かな希望を贈るメッセージとなっています。
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日本の小説家・随筆家 五木 寛之氏 |
五木 寛之(いつき ひろゆき、1932年〈昭和7年〉9月30日 - )は、日本の小説家・随筆家。福岡県出身。旧姓は松延(まつのぶ)。日本芸術院会員。少年期に朝鮮半島から引揚げ、早稲田大学露文科中退。作詞家を経て『さらばモスクワ愚連隊』でデビュー。『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞受賞。反体制的な主人公の放浪的な生き方(デラシネ)や現代に生きる青年のニヒリズムを描いて、若者を中心に幅広い層にブームを巻き起こした。その後も『青春の門』をはじめベストセラーを多数発表。1990年代以降は『大河の一滴』など仏教、特に浄土思想に関心を寄せた著作も多い。
☆
以下が自分の読後要約です。
■孤独のすすめ 五木寛之著 2025/07/30読了 要約
人生後半の生き方
■はじめに
「春愁」という感覚・・おだやかに、ごく自然に現実を認め、愁いをしみじみと味わう。
「孤独」を楽しむ・・人生後半期のすごく充実した生き方。
「前向きに」の呪縛を捨てる・・回想は誰にも迷惑をかけない。
■第1章「老い」とは何ですか
「諦める」ということ・・明らかに究める。
人生四つの季節・・青春、朱夏、白秋、玄冬。自分がどこにいるのかの視点の転換。
「老人になっても、他人に頼らずに生きる」。「自立した生き方」。
■第2章「下山」の醍醐味
衰えを認め、受け入れる・・自分の現状を明らかに究めて受け入れる。
古代インドの概念・・
「学生期」・・青少年の時代、心身を鍛え、学習し、生きるために必要なさまざまな経験を積む。
「家住期」・・社会に出て働き、結婚し、家庭を作って子供を育てる。
「林住期」・・実社会からリタイアし、家も家族も捨てて、文字通り、独り林に住む。50歳から75歳。人生の黄金期。きちんと自立して、自分の好きな道を行ってよい時期。
「遊行期」・・林さえも離れ、定住地を持たずに、無一文になって放浪し、天命に委ねよ。
■第3 章老人と回想力
想像力を回復する。
■第4章「世代」から「階級」へ
宗教というものは人間から始まる・・日本の文化や思想・・神仏混合。
欧米を中心とした近代文明・・徹底したキリスト教文化・・アメリカは「神国アメリカ」。
これからの世界で必要なのは、日本の仏教の中で言われる「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)。・・木にも草にも山にも岩にも命があり、仏性という尊いものが潜んでいるというアミニズム的な考え方ア。ミニズムは原始人の未開的な宗教意識と言われている。自分の信ずる神はひとつだけれど、ほかの神の存在も認めるという考え方に注目すべき。
明治以来、もっとも遅れているとされた多神教な思想こそ、日本が今後世界に寄与できる思想なのではないでしょうか。
■第5章なぜ不安になるのか
今の状況に似た時期は、平安末期から鎌倉初期にかけての頃が、私の考えです。
明日が見えず、老いも若きも、みんながある種、終末的な不安に苛まれている、という点では、とてもよく似てはいないでしょうか。
理由は「今の日本には、たしかな希望が見出せない」という現実につきるのではないでしょうか。
■第6章まず「気づく」こと
ガラクタも捨てなくていい。音楽も、回想の憑代となる。
嫌老社会から賢老社会へ。
■おわりに
「回想」のすすめ。
「回想」が、人間不信と自己嫌悪を癒してくれる。
出会いや思い出を、ときどき引き出して、発掘、発見するのは、下山の時期を豊かにする処方箋です。
そのためにも「回想力」をしっかり育てたいものです。・・「玄冬」のさ中にて。