私が気に入った新聞コラム
山笑う春に思う さだまさし氏
漢字が読めず、語彙も乏しくなった日本人。文章を読み、人と話すべし
新聞も読まずテレビも観(み)ず、ラジオを聴(き)かなくても情報に囲まれているという薄気味悪い時代。しかもそれらの情報には巧妙な嘘(うそ)や下衆(げす)な邪推や曖昧な伝聞まで含まれる上、責任も取らず検証さえしないから流言飛語が野放しになる。
新聞を読む人が減ったことは日本語にとっても報道にとっても極めて深刻なのだ。新聞を読む人が減れば新聞社は良い書き手を育てることが出来ない。良い書き手が減れば良い読み手は育たない。こうして我々(われわれ)は国語からこの国を失いつつある
まったくその通りですね。
難しい時代にはいりましたね。
![]() |
日本のシンガーソングライター、俳優、タレント、小説家。さだまさし氏 |
さだ まさし(本名:佐田 雅志〈読み同じ〉、1952年4月10日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優、タレント、小説家。國學院大學、東京藝術大学客員教授。フォークデュオのグレープでメジャーデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「案山子」「関白宣言」「道化師のソネット」「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を生み出す。トークの軽妙さは大きな魅力とされており、それで自身のコンサートのお客を楽しませ、またテレビ・ラジオ番組のパーソナリティーやMCなどとしても活躍。小説家としても活動し、『解夏』『眉山』などの作品を発表している。
山笑う春に思う さだまさし氏
漢字が読めず、語彙も乏しくなった日本人。文章を読み、人と話すべし
三春(さんしゅん)の季語に「山笑う」がある。針葉樹林の山々の濃い緑の中に広葉樹の若く浅い緑が霞(かすみ)のように湧き、そこに桜色がまだらに散(ち)りばめられて仄(ほの)かに艶めく光景は本当に山が笑うようでまことに人の言葉は美しいと思う。
これは北宋の画家、郭熙(かくき)の「春山淡冶にして笑うが如(ごと)く」が語源と言われ、この人の文から、夏は「山滴(したた)る」秋は「山粧(よそ)う」冬は「山眠る」という見事な表現が千年の時を超えて今に伝わっている。
人の言葉はこのように広く味わい深く、人に伝わってほしいものだ。中国文化との繫(つな)がりが、彼の文言の行間を愛(め)でられる程に深くて長いという証(あかし)だろうが、外来語の良きものを母国語に取り込み千年も共に暮らし育ててきた先人の志の成果だろう。
文章の本当の深さ美しさはその行間に潜む。言葉の狭間(はざま)に眠る湿度や温度の気配、色合いなどの景色、時の流れ、言葉によって享受出来(でき)る心の情景まで掘り起こして感じることを「行間を読む」というのだが、もうそれが難しい時代になった。
コンプライアンス、ガバナンス、ハラスメント、エビデンスと、こちらが正確な理解が出来ないような英単語を、哀れなほど拙(つたな)い日本語に散りばめられて喋(しゃべ)られると、何やら本音をはぐらかされるようで、ついあなたどこの国の方ですかと尋ねたくなる。
外国語が文脈を伴わずに単語だけ輸入されるの「属国文化の特徴」と言うが、これは日本が文化的にもアメリカの属国であることを示すもののひとつ。
だが日本人の日本語が下手になったのには他にも原因がある。行間が読めず人との会話が下手な理由は、文章を読まず人と話をしないからだ。従って漢字が読めず語彙も乏しい。他人と没交渉でも生きられる社会は人の心から体温と思想を奪う。受験など点数が全てという社会制度にも多々間題があるが、その制度で出世した人物にとってはそこが拠(よ)り所(どころ)だから決してそれを変えようとしない。こうして社会は劣化して行(ゆ)く。
新聞も読まずテレビも観(み)ず、ラジオを聴(き)かなくても情報に囲まれているという薄気味悪い時代。しかもそれらの情報には巧妙な嘘(うそ)や下衆(げす)な邪推や曖昧な伝聞まで含まれる上、責任も取らず検証さえしないから流言飛語が野放しになる。こんな無責任な情報と「報道」とは次元が全く違う。新聞のコラムだから言うのではない。新聞を読む人が減ったことは日本語にとっても報道にとっても極めて深刻なのだ。新聞を読む人が減れば新聞社は良い書き手を育てることが出来ない。良い書き手が減れば良い読み手は育たない。こうして我々(われわれ)は国語からこの国を失いつつある(さだまさし)
0 件のコメント:
コメントを投稿