逝きし世の面影 渡辺京二著 Gemini要約
渡辺京二が亡くなった2022年12月に購入した、「逝きし世の面影」 渡辺京二著の
内容が膨大で、読むのを怠っていましたが、
最近AIのGeminiで、本の要約を試してみました。時間は約30分、
内容は少しくどいですが、Geminiによる、渡辺京二著 逝きし世の面影の要約が完成です。
「逝きし世の面影」、非常に勉強になった、すごい内容でした。
今後の自分の考え方の基本にしていきたいと思います。
しかし、AI Geminiは、早いですね。なかなか面白い試みでした。
この調子で、他の書籍も試してみたいと思っています。
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逝きし世の面影 渡辺京二著 |
ひとつの異文化としての古き日本に魅了された
紹介記事
渡辺京二さんの代表作『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)。1998年に葦書房より刊行され、2005年に平凡社から再刊
私はずっと売れぬ本の著者であった。それでよいと思っていた。ときには選書になったり文庫化されたりして、部数が万の台に乗ることもなかったわけではないが、私が本筋と思っている著書はだいたい初刷三千、重版なしというのが常態だった。ところがこの本は売れた。ひとつにはそれは、一文の得にもならぬのにことあるごとにこの本を推賞して下さった方が何人もあったからだと思うが、とにかく、葦書房の社長で私の売れぬ本を数々出してくれた故久本三多さんに、彼の生きているときには間に合わなかったとはいえ、少しは申し訳の立った気がした。また刊行当時の社長三原浩良氏にも、三十数年間迷惑ばかりかけて来た相手ゆえ、いくらか負債を返せた思いだった。
しかし、自分の本を買って下さる人がこんなにたくさんいるというのはありがたいのはもちろんだけれど、罰当りな言い草とは思うものの何だか落着かぬ気分でもあった。紹介や批評もたくさん出た。これも落着かぬ気分だった。というのは、私の隠れ願望のことは言わぬにしても、世間には、私が日本はこんなにいい国だったのだぞと威張ったのだと思う人、いや思いたい人が案の定いたからである。
私はたしかに、古き日本が夢のように美しい国だという外国人の言説を紹介した。そして、それが今ばやりのオリエンタリズム云々といった杜撰な意匠によって、闇雲に否認されるべきではないということも説いた。だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇ることにはなかった。私は現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかったので、古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった。この本はそれまで私が重ねて来た仕事からすれば、突然の方向転換のような感じを持った人びともいたらしいが、私の一貫した主題が現代という人類社会の特殊なありように落着かぬ自分の心であった以上、そういったものでもあるまいと自分では思っている。だが、そういうくだくだしたことはこれ以上書くまい。この本が呼び起した反応とそれに対する答は、すでに「逝きし世と現代」(『渡辺京二評論集成Ⅲ・荒野に立つ虹』所収。葦書房、一九九九年刊)と題する小論で述べておいた。
「日本」ということについていえば、私はことごとに「日本」を問題にしなければならぬ状況にうんざりしている。私は「日本」などともう言いたくない。ただ狭くとも自分が所有している世界があるだけで、もちろん国民国家の区分のもとに政治・経済・文化の諸事象が生成している「現実」には責任ある対応が必要と承知はするものの、それはことの一面にすぎないと思っている。私が生きている現実は歴史的な積分としての日本に違いないが、それは私が良くも悪しくも、人類の所有する世界にそういう分出型を通じて参与せざるを得ぬということにすぎない。
近頃は伝統といえば、それはごく近代になって創られたフィクションだというのがはやりである。むろん、そういうことはあろう。では自分は過去とは無縁のまっさらな存在かといえば、そんなことは事実としてありえないので、伝統と呼ぶかどうかは別として、自分とは過去の積分上に成り立ち、そこから自己の決断の軌跡を描こうとする二重の存在でしかない。その意味で私は自分が日本人であることを改めて認める。だが、それは国民国家日本の一員として自分を限定することとは異なる。自分が日本という風土と歴史のなかで形成されたものとして、人類の経験に参与する因縁を自覚するというだけのことである。
因縁はなつかしくもうとましい。私は北京・大連という異国で育った人間である。そういう私にとって、日本は桜咲く清らかな国であった。大連にも桜は咲く。しかし桜より杏の方が多くて、その青みがかった白い花は桜に先がけて開き、桜に似てはいるもののもっとはかなげで、私の好みはこの方にあった。春の盛りにはライラックが咲き、アカシヤの花が匂う。夏はそれこそ群青というほかはない濃い青空。秋が立つのは港から吹く風でわかった。冬はぶ厚い雪雲が垂れこめて、世界は沈鬱なブラームスのように底光りする。中学の八級先輩の清岡卓行さんだけでなく、大連は私にとっても故郷だった。
しかし、それはあくまで異郷であって因縁ではなかった。私はやがて桜咲く「祖国」へ帰った。それは良くも悪しくも因縁であるけれども、私はずっと半ば異邦人としてこの国で過した気がする。といっても、私は日本に対して今ばやりの反逆をしたわけではない。日本に反逆すると称して意気がっている連中は、おのれの無知をさらけ出しているにすぎない。私はただなじめなかったのである。まず第一に、この国の知識人社会の雰囲気になじめなかった。このことはこれ以上今は言わぬとして、自然にも異質さを覚えた。
私は十八歳のとき結核療養所に入って、四年半そこにいた。熊本市から北東へ十キロばかり行ったところにあって、まわりは御代志野という高原状の林野だったが、私はそこで初めてこの国の自然の美しさを感じた。しかし、それは宮沢賢治のイーハトーブふうの美しさで、この国の自然一般とはかなり異なった情趣であったかもしれない。それでも、空のコバルト色の淡さはもの足りなかった。早春はそれでよくても、真夏の淡い青空は気が抜けて感じられた。
それ以来、この国の自然のいろんな情趣に接して、この本の中で外国人が嘆賞しているような自然の美しさの諸相に、私自身気づかなかったわけではないが、それでもこの国の山河をほんとうに心の故郷と思うには、なにか隙間がありすぎた。
私は湿っぽい自然がだめであった。有名な神社仏閣を訪ねて、みんなが苔のみごとさに感心しているとき、私はその苔の湿っぽさがいやなのだから話にならない。渓谷を歩いていても、上を見ている分には樹木が美しいが、踏んでいる地面の落葉の積み重なった湿っぽさがたまらない。野に霞がかかり谷に霧がわく、そんな山水画ふうの幽邃さに深く惹きこまれることはあっても、日本の山河はあまりにも寂しくて、こんなところで死んだらと思うと背中が薄ら寒く感じられる。
だから私はこの本を書いたとき、この中で紹介した数々の外国人に連れられて日本という異国を訪問したのかもしれない。彼らから視られるというより、彼らの眼になって視る感覚に支配されていたのだろうか。私はひとつの異文化としての古き日本に、彼ら同様魅了されたのである。
その古き日本とは十八世紀中葉に完成した江戸期の文明である。その独特の雰囲気については私はその後一冊、本を書いた(『江戸という幻景』弦書房、二〇〇四年刊)。渡辺が描き出すのびやかな江戸時代が一面にすぎず、その反面に暗黒があったのは誰それの著書を見てもわかるという批評を案の定見かけたけれど、それがどうしたというのだ。ダークサイドのない社会などないとは、本書中でも強調したことだ。いかなるダークサイドを抱えていようと、江戸期文明ののびやかさは今日的な意味で刮目に値する。問題はこういうしゃらくさい「批評」をせずにはおれぬ心理がどこから生ずるかということで、それこそ日本知識人論の一テーマであるだろう。
完成した形の江戸期社会の構造と特質については、一度きちんと論じてみたい誘惑を感じないでもない。しかし、残り少い時と精力がそれを許すかどうか。ただ次のことだけは言っておこう。少年の頃、私は江戸時代に生れなくてよかったと本気で思っていた。だが今では、江戸時代に生れて長唄の師匠の二階に転がりこんだり、あるいは村里の寺子屋の先生をしたりして一生を過した方が、自分は人間として今よりまともであれただろうと心底信じている。
この本を出した功徳のひとつは、私の本を読んで下さる人びとの層がいくらか拡がったことだ。以前はごく狭い読者しか意識していなかった。本気で私の本を読んで下さる方は多くて数百人で、それで十分と思っていた。しかし今ではもう少し広い読者の方々が眼に浮かんでいて、そんなふうになれたことが自分では嬉しい。
(平凡社ライブラリー『逝きし世の面影』から「平凡社ライブラリー版あとがき」の一部を抜粋)
☆
■渡辺京二著 逝きし世の面影 Gemini Flash要約
■ 第1章:「ある文明の幻影」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「ある文明の幻影」は、明治時代以降の日本の近代化によって失われた、かつての日本に存在した独自の文明を描写しています。
異邦人が見た「夢のように美しい国」
幕末から明治初期にかけて日本を訪れた西洋人たちは、当時の日本が西洋とは異なる、独自の素晴らしい文明を築いていることに驚嘆しました。彼らの多くは、その文化、風習、人々の暮らしぶりに魅了され、日本を「夢のように美しい国」と表現しました。
近代化による文明の死滅
渡辺京二は、明治維新以降の近代化、すなわち西洋化の過程で、この素晴らしい文明が変貌したのではなく、すでに「死滅してしまった」と診断します。ここでいう「文明」とは、単なる文化や風習の断片ではなく、人々の生活様式、自然や他者との関係性、幸福感に満ちた有機的な社会全体のあり方を指します。
「文化は生きるが、文明は死ぬ」
著者は「文化は生きるが、文明は死ぬ」という視点を提示し、たとえ伝統的な文化の一部が残ったとしても、それはかつての文明の中で生きていたものとは本質的に異なると論じます。
西洋近代との対比
西洋の一神教的な世界観では、神が万物を作り、人間は自然を支配・利用する対象と捉えられます。しかし、日本においては、存在するものは絶対的主体が作ったものではなく、自然と共生し、調和する思想が根底にありました。この自然との関係性の違いも、失われた文明の一側面として描かれます。
幸福で自由な社会
渡辺京二は、当時の日本人がたとえ貧しくとも陽気で豊かであり、自由で、ある種の民主的な生活を送っていたと指摘しています。これは、西洋近代がもたらした「自由な労働力」という概念とは異なる、土地や身分に縛られない人々の伸びやかな社会生活として捉えられています。
「ある文明の幻影」という表現は、この近代化の過程で失われた、しかし異邦人の目には鮮やかに映った、幸福で有機的な日本の文明に対する著者の哀惜と、それを現代に問い直す姿勢を表しています。
■ 第2章:「陽気な人びと」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「陽気な人びと」は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本人の精神性や社会のあり方を詳細に記述した章です。
異邦人の記録に見る日本人の特性
多くの外国人旅行者や滞在者(モース、シーボルト、ハリス、バードなど)が残した記録には、当時の日本人がきわめて陽気で、礼儀正しく、幸福に満ちた生活を送っていた様子が繰り返し語られています。彼らは貧しさの中でも悲壮感がなく、生き生きとしていたと記されています。
貧しさの中の精神的豊かさ
現代の視点から見れば、当時の日本は物質的に決して豊かではなかったかもしれません。しかし、外国人の目には、日本人は「真の貧しさ」を知らず、むしろ精神的に満たされ、質素な生活の中に多くの楽しみを見出す才能を持っていたと映りました。人々は飾り気がなく、正直で、互いに助け合う精神に溢れていたとされています。
争いを好まない性格と治安の良さ
銃や刀を携帯していてもめったに争いが起きず、子ども同士の喧嘩すら見られなかったという記録が多く残されています。これは、当時の社会が秩序と調和を重んじ、暴力に訴えることを避ける国民性があったことを示唆しています。窃盗などの犯罪も極めて少なく、外国人は日本の治安の良さに驚愕しました。
自然との調和と遊び心
人々は自然を深く愛し、四季折々の美しい風景や行事を楽しみました。日常の仕事の中にも遊びや歌、冗談が常にあり、生活そのものが喜びや楽しみで満たされていました。これは、自然や共同体との一体感を重んじる、当時の日本人の世界観を反映しています。
「自由な」社会の側面
渡辺京二は、当時の日本には西洋的な意味での「自由」はなかったかもしれないが、人々は身分や土地に縛られながらも、ある種の精神的な「自由」と伸びやかさを持っていたと論じます。彼らは物質的な所有欲に囚われず、集団の中で個性を発揮し、人生を謳歌していました。
近代化によって失われたもの
この「陽気な人びと」が暮らした社会は、明治維新以降の近代化、西洋文明の導入によって大きく変容し、その精神性や社会構造は失われていきました。著者は、この失われた「陽気さ」こそが、かつての日本の文明を特徴づける重要な要素であったと指摘しています。
この章は、単なる昔の日本人の性格描写に留まらず、近代化以前の日本社会が持つ独特の価値観、人々の幸福感の源泉、そして現代日本人が失ってしまったかもしれない豊かさについて深く考察する内容となっています。
■ 第3章:「簡素とゆたかさ」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「簡素とゆたかさ」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目にした、当時の日本社会における物質的な簡素さと、それによって育まれた精神的・文化的な豊かさについて考察しています。
物質的な簡素さの受容
外国人たちは、当時の日本人の住まい、衣服、食生活などが極めて簡素であることに驚きを表明しています。家屋は木と紙でできており、家具も少なく、装飾も控えめでした。衣服も綿や麻が主で、豪華な装飾は限られていました。しかし、この簡素さは、彼らにとって貧困の象徴ではなく、むしろ生活様式の一部として自然に受け入れられているように映りました。
無駄のない生活様式
日本人の生活は、必要最小限のもので充足し、無駄を徹底的に排除していると認識されました。例えば、座卓や布団など、使用しないときは片付けて空間を有効活用する工夫は、西洋の固定家具中心の生活とは対照的でした。これは、空間の質を重視し、簡素な中に機能美を見出す日本人の美意識とも繋がっています。
清潔さと秩序
物質的に簡素である一方で、日本社会全体が非常に清潔で整然としていたことに、多くの外国人が感銘を受けました。家屋はもちろんのこと、通りや公共の場も清掃が行き届き、人々の身なりも常に清潔でした。この清潔感は、簡素な生活の中での「ゆたかさ」を際立たせる要素でした。
精神的・文化的な豊かさ
簡素な物質生活の裏には、豊かな精神文化が息づいていました。人々は自然を愛し、四季の移ろいや花鳥風月に美を見出す感性を持っていました。詩歌、茶道、生け花、庭園といった芸術や文化は、日常の簡素な生活の中にこそ根ざしていました。また、人々は助け合い、他者への配慮を忘れず、精神的な充足感を持って暮らしていました。
「足るを知る」思想
この簡素さの中の豊かさは、「足るを知る」という東洋的な思想とも深く関連しています。物質的な豊かさを追求するよりも、今あるものに満足し、心の平和や精神的な充足を重んじる生き方が、当時の日本社会には根付いていたと著者は示唆しています。
近代化による喪失
渡辺京二は、明治以降の近代化が、西洋的な物質主義や効率性を追求する中で、この「簡素とゆたかさ」が共存する独特の価値観を失わせていったと指摘しています。かつての日本人が持っていた、物質に囚われない自由で豊かな精神性は、西洋化の過程で薄れていったのです。
この章は、単に過去の生活様式を懐かしむだけでなく、現代社会が物質的な豊かさを追求する中で見失いがちな、本当の「ゆたかさ」とは何かを問い直す契機を与えてくれます。簡素な生活の中にこそ、深い精神的な満足と人間らしい豊かさが存在したという、当時の日本の姿を描き出しているのです。
■ 第4章:「親和と礼節」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「親和と礼節」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本社会を特徴づける人間関係のあり方、特に人々がお互いに示していた親愛の情と、社会全体に浸透していた礼儀正しさについて深く考察しています。
驚くべき親愛の情と友好的な国民性
多くの外国人旅行者や滞在者(モース、バード、ヒュースケン、ブランデンら)は、当時の日本人が見知らぬ人に対しても驚くほど親切で友好的であったことに感銘を受けています。彼らは、たとえ言葉が通じなくても、常に笑顔で迎え、親身になって助けようとする日本人の姿を記録しています。これは、西洋社会では見られなかった温かい人間関係として認識されました。
徹底した礼儀正しさの普及
人々の間では、身分や年齢に関わらず、非常に洗練された礼節が保たれていました。挨拶、身のこなし、言葉遣いの一つ一つに丁寧さが込められ、それが社会全体の調和を生み出していました。争いごとが少なく、公共の場での無秩序が見られないのは、この礼節が隅々まで行き渡っていたためだと考えられています。
共感と協力に基づく社会
個人主義が発達した西洋社会とは異なり、当時の日本社会は共同体的なつながりが非常に強く、人々は互いに協力し、共感し合うことを重んじていました。困っている人がいれば自然と助けの手が差し伸べられ、集団の和が個人の利益に優先される傾向がありました。このような相互扶助の精神が、社会の円滑な運営を支えていたと指摘されます。
「面子」と「恥」の文化
礼儀正しさの背景には、「面子」を重んじ、「恥」をかくことを避ける文化があったことも示唆されます。これは表面的な形式主義ではなく、相手への敬意と、共同体の中での自分の役割を自覚することから来る内面的な規範として機能していました。
教育と躾の浸透
このような親愛と礼節は、特別な階層に限られたものではなく、市井の人々、さらには子どもたちにも自然に身についていることとして、外国人たちは驚きをもって受け止めました。これは、幼少期からの教育や家庭、地域での躾が、人格形成において極めて重要な役割を果たしていたことを示唆しています。
近代化による「失われた規範」
渡辺京二は、明治以降の近代化、特に西洋的な個人主義や競争原理の導入によって、かつて日本社会を支えていたこの「親和と礼節」の精神が、次第に失われていったと考察します。かつての日本人を特徴づけていた温かい人間関係や細やかな気配りは、現代社会において希薄になりつつある価値観として描かれています。
この章は、単なる過去の日本人像の記述にとどまらず、人間関係の希薄化が指摘される現代社会において、かつての日本社会が持っていた人間性豊かな共同体のあり方、そしてそれを支えていた根源的な規範について深く考えさせる内容となっています。
■ 第5章:「雑多と充溢」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「雑多と充溢」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本の都市や人々の生活が持つ、活気に満ちた混沌と、そこから生まれる多様性、そして生命力あふれる豊かさを描いています。
活気あふれる雑踏と多様な人々
当時の日本の都市、特に江戸(東京)や大阪、京都などの大都市は、驚くほどの活気に満ちていました。通りには様々な職業の人々が行き交い、露店が並び、物売りの声が響き渡っていました。武士、町人、農民、職人、芸人、行商人など、多様な人々が混じり合い、それぞれの生活を営む姿が、外国人にはエネルギッシュで魅力的に映りました。
空間の有効活用と密度の高さ
土地が限られている中で、人々は住居、店舗、作業場などを巧みに配置し、都市空間を極めて効率的かつ密度の高い形で利用していました。家々は軒を連ね、路地裏まで人々の生活が溢れ出し、一見すると無秩序に見える中に、独自の秩序と機能が息づいていました。
生活と仕事の一体感
現代のように住居と仕事場が分離されることは少なく、多くの職人や商人は自宅兼店舗で働き、その生活の様子が外からも垣間見えました。これは、人々の労働が生活の中に溶け込み、そこから豊かなコミュニティが形成されていたことを示唆します。
五感で感じる豊かさ:
通りには様々な匂い、音、色彩が溢れていました。活気ある会話、職人の叩く音、祭りの音楽、食べ物の香りなど、五感を刺激する情報が「充溢」しており、単調さとは無縁の豊かな体験が日常の中にありました。これは、西洋の都市が持つ、より画一化された空間とは異なる、有機的な生命力に満ちたものです。
自然と人工の混在
都市の中にも水路や菜園、小さな神社仏閣が点在し、自然と人工が巧みに混ざり合っていました。人々は自然のリズムに合わせて生活し、都市の中にいながらも自然の恵みを感じられる環境がありました。
「計画性」とは異なる秩序
近代的な都市計画のような明確な意図に基づいて作られたわけではないのに、当時の都市には人々の生活に根ざした、ある種の自生的な秩序と調和が存在していました。これは、人々の相互理解と柔軟な対応によって成り立っていたもので、効率性だけでは測れない豊かな社会性を示しています。
近代化による「整理」と「喪失」
渡辺京二は、明治以降の近代化が、こうした「雑多と充溢」に満ちた有機的な都市空間や生活様式を、西洋的な合理主義や衛生観念に基づいて「整理」し、「効率化」していった結果、かつての活気や多様性、そしてそこから生まれる豊かさが失われていったと指摘します。現代の均質化された都市空間や生活は、かつての「雑多と充溢」とは対照的なものです。
この章は、単に過去の日本の都市の賑やかさを描くだけでなく、近代化がもたらした利便性の裏で、人々が失ったかもしれない生命力あふれる空間と、多様な価値観が共存する社会の豊かさについて深く考察するものです。
■ 第6章:「労働と身体」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「労働と身体」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本人の労働のあり方と、それが身体、精神、そして社会全体といかに結びついていたかについて深く考察しています。
身体と一体化した労働
近代の産業労働とは異なり、当時の日本の労働は機械による自動化が進んでおらず、人間の身体そのものが主な道具であり、生産の主体でした。職人の手仕事、農民の農作業、運搬人の力仕事など、あらゆる労働が身体の動きと密接に結びついていました。これは、身体の能力を最大限に活かし、それを鍛え、洗練させていく過程でもありました。
労働の中の美と熟練
外国人たちは、日本人の労働が単なる作業ではなく、しばしば芸術的、あるいは舞踊のような美しさを持っていたことに驚嘆しています。職人たちは、長年の経験と修練によって培われた高度な技術を持ち、その動きには無駄がなく、流れるようでした。これは、労働が生活の糧であると同時に、自己表現の場であり、喜びの源でもあったことを示唆します。
労働と遊びの未分離
当時の労働には、現代のように厳密な労働時間や休憩の区別がなく、労働と遊び、生活が一体となっていました。人々は働きながら歌い、冗談を交わし、祭りや年中行事と結びつくこともありました。労働の中に楽しさや精神的な充足を見出すことができ、労働が単なる苦役ではなかったことが描かれています。
身体のしなやかさと強靭さ
日本人の身体は、当時の生活様式や労働によって、非常にしなやかで強靭であったと外国人によって記録されています。長距離を歩き、重い荷物を運び、過酷な農作業をこなす身体能力は、西洋人にとっては驚くべきものでした。それは、特定の筋肉を酷使するのではなく、全身をバランス良く使うことで培われたものでした。
労働を支える精神性
労働の現場には、常に相互扶助の精神や共同体の絆が存在していました。一人で黙々と作業するだけでなく、協力し合い、励まし合うことで、労働の負担を軽減し、連帯感を育んでいました。また、「足るを知る」という精神性も、過度な競争や物質的欲求に囚われず、自らの労働に満足する態度を形成していました。
近代化による労働の変化と身体の変容
渡辺京二は、明治以降の近代化、特に工場制手工業や機械化の導入が、こうした「身体と一体化した労働」のあり方を根本的に変質させていったと指摘します。労働は細分化され、身体の特定の部位だけを使う単調な作業が増え、人間が機械の歯車の一部となるような状況が生まれました。これにより、かつて労働の中に見出せた美や喜び、身体の総合的な能力は失われ、労働は次第に苦痛を伴うものへと変貌していきました。
この章は、単に過去の労働形態を記述するだけでなく、近代化が人間の身体と精神、そして労働の価値に与えた影響を深く問い直し、現代社会における労働の意味を考える上で重要な視点を提供しています。かつての日本人が持っていた、労働を通して身体を磨き、生活と一体となって生きる豊かさを浮き彫りにしています。
■ 第7章:「自由と身分」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「自由と身分」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本社会における身分制度の存在と、その中で人々が享受していた、西洋近代のそれとは異なる独自の「自由」のあり方について深く考察しています。
身分制度の存在と外国人による認識
当時の日本社会には、武士、農民、職人、商人といった厳格な身分制度が存在していました。外国人たちはこの制度を認識し、一部ではそれが個人の自由を束縛しているかのように映ったかもしれません。しかし、彼らが実際に見たのは、制度の厳格さとは裏腹に、人々が意外なほどのびのびと生活している姿でした。
「身分」の厳格さと「移動の自由」
渡辺京二は、現代的な視点で見れば固定的な身分制度が存在したものの、当時の人々には想像以上に「移動の自由」があったことを指摘します。例えば、農民が都市に出て職人になったり、丁稚奉公から独立して商人になったりするなど、職業や居住地を変えることは、近代社会で考えられるほど困難ではなかったと論じられます。これは、口減らしや出稼ぎ、あるいは新たな生業を求めるための柔軟な社会移動が存在したことを示唆しています。
身分に縛られない精神的自由と陽気さ
重要なのは、人々が身分によって形式的に規定されていても、精神的には非常に自由で陽気だったということです。彼らは自分の身分を悲観する様子を見せず、与えられた環境の中で最大限に人生を楽しみ、創造性を発揮していました。この精神的な「自由」は、物質的な豊かさや政治的な権利とは別の次元に存在し、外国人たちを驚かせました。
相対的な「貧しさ」の中の「豊かさ」
物質的には貧しいと見られがちな身分の人々であっても、その生活には「陽気さ」「簡素とゆたかさ」の章で述べられたような精神的・文化的な豊かさがありました。彼らは所有欲に囚われず、集団の中での役割と調和を重んじながらも、それぞれの生活の中で自分なりの充足感を見出していました。この感覚は、身分制度の有無とは直接関係のない、より深い人間的な自由の表れでした。
権力への無関心と自立性
当時の人々は、政治的な権力闘争や身分制度の根幹にあまり関心を示さず、むしろ自分たちの日常生活や共同体の営みに集中していました。これは、彼らが形式的な身分に縛られつつも、実生活においてはかなり自律的に行動し、相互扶助の中で生活を営むことができていた証拠であると解釈されます。
近代化による「自由」概念の変質
渡辺京二は、明治維新によって身分制度が撤廃され、近代的な「自由」や「権利」の概念が導入されたことで、かえって人々はかつて持っていたある種の精神的、実質的な自由を失った可能性を指摘します。身分制度が撤廃されたにもかかわらず、近代的な競争社会や経済的な不平等が、新たな形の不自由さや抑圧を生み出した、という逆説的な見解が示唆されます。
この章は、近代西洋的な「自由」の概念を絶対的なものとして捉えるのではなく、当時の日本社会に存在した、身分制度という枠組みの中での独特な、そしてむしろ人間的な「自由」のあり方を提示することで、現代社会における自由の意味を問い直す契機を与えています。
■ 第8章:「裸体と性」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「裸体と性」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃し、驚きと戸惑いをもって記録した、当時の日本社会における裸体や性に対するおおらかで自然な態度について深く考察しています。
裸体に対するおおらかで無垢な態度
外国人たちは、当時の日本人が公衆の面前で裸になることに抵抗がほとんどないことに衝撃を受けました。特に、混浴の習慣、夏の時期に男性が裸同然で働く姿、子どもたちの裸、また銭湯への道すがら平気で裸で歩く人々など、西洋社会の厳格なモラルからは想像もつかない光景が記録されています。これは、彼らが裸体に抱く「恥」や「罪悪」といった意識が、当時の日本人には希薄であったことを示唆します。
「裸」=「自然な身体」としての認識
日本人にとっての裸体は、性的なものや不道徳なものとしてではなく、単に自然な身体の姿として捉えられていました。身体を隠すことよりも、清潔に保つことの方が重要視されており、銭湯などの公衆浴場はそのための不可欠な生活空間でした。
性に対する開かれた態度
裸体に対するおおらかさは、性に対する一般的な態度にも通じていました。性的な事柄がタブー視されすぎず、むしろ生活の一部として、ある種の健全なものとして認識されていたことが示唆されます。浮世絵に描かれる性的な場面や、性的な表現に対する当時の人々の反応なども、その証拠として挙げられます。
西洋の「禁欲主義」との対比
西洋、特にヴィクトリア朝時代のキリスト教的倫理観に基づく厳格な禁欲主義や、身体を隠す文化とは対照的に、日本社会はより開放的で、本能的なものに対する忌避感が少なかったと著者は指摘します。西洋人が性や裸体に感じる罪悪感や羞恥心は、当時の日本人にはほとんど見られませんでした。
近代化による変化と「恥」の導入
明治維新以降の近代化、特に西洋文明の導入は、日本のこの裸体や性に対する態度に大きな変化をもたらしました。西洋のキリスト教的倫理観や公衆衛生の概念が持ち込まれることで、それまで自然であった裸体への意識に「恥」の感情が植え付けられ、混浴の禁止や服装の規範化が進みました。著者は、これにより日本人が本来持っていたおおらかさや、自然な身体感覚が失われていったと考察します。
「性欲」の捉え方
この章では、当時の日本人が性欲を、西洋のように「罪」や「悪」と捉えるのではなく、人間の自然な営みの一部として、より肯定的に受け入れていた側面も描かれています。それは、単なる放縦ではなく、生活のサイクルの中にあるものとして認識されていたと考えられます。
この章は、当時の日本社会が持つ、西洋とは異なる身体観や性文化を浮き彫りにし、近代化がもたらした価値観の変容、そして失われた(あるいは抑圧された)日本人本来の身体感覚について深く問い直す内容となっています。
■ 第9章:「女の位相」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「女の位相」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本人女性の姿、その社会的役割、そして西洋社会の女性とは異なる独特の「自由」や「強さ」について深く考察しています。
この章で渡辺京二が描くのは、単に家父長制下の従順な女性像ではありません。外国人たちの記録から浮かび上がるのは、生活の様々な場面で能動的に関わり、ある種の自立した精神を持っていた女性たちの姿です。
西洋人の目から見た日本人女性の魅力
多くの外国人旅行者は、日本人女性の「愛らしさ」「優しさ」「控えめな態度」を称賛しています。しかし、その一方で、彼女たちが持つ芯の強さや、生活を支える実質的な能力にも注目していました。西洋の女性とは異なる魅力を感じていたことがうかがえます。
生活を支える労働力と実質的な権限
当時の女性は、家庭内だけでなく、農作業、行商、職人の手伝いなど、様々な経済活動において重要な労働力でした。彼女たちは家計を管理し、子育てや家事を取り仕切るなど、実生活においては大きな権限と影響力を持っていました。形式的な地位が低くても、実質的な生活の運営は女性が担っている場面が多かったことが示唆されます。
性の表現とおおらかさ
「裸体と性」の章とも関連しますが、当時の日本人女性は、西洋的な「慎ましやかさ」とは異なる、よりおおらかで自然な性の表現を持っていたことが指摘されます。浮世絵に描かれる女性像や、性的な事柄に対する鷹揚な態度は、西洋のヴィクトリア朝の道徳観とは大きく異なり、外国人には驚きをもって受け止められました。これは、現代のフェミニズム的な視点とは異なる文脈で、身体や性に対する束縛が少なかった可能性を示唆しています。
身分を超えた人間性
身分制度が存在する中でも、女性たちはそれぞれの立場で生活の喜びを見出し、家族や共同体の中で重要な役割を果たしていました。身分によって形式的な制限はあっても、人間的な営みや感情の豊かさにおいては、そこに大きな隔たりはなかったと読み取れます。
近代化による「女性らしさ」の変容
渡辺京二は、明治以降の近代化、特に西洋的な男女観や「良妻賢母」といった概念が導入されたことで、かつて日本人女性が持っていた自然体のおおらかさや実質的な権能が、形式的な「女性らしさ」や役割の中に閉じ込められていった可能性を指摘します。西洋の近代化が、ある種の「自由」をもたらした一方で、女性たちが持っていた固有の「位相」を失わせたという、逆説的な視点が提示されています。
この章は、近代的な男女平等の視点から過去を断罪するのではなく、当時の社会状況の中で女性たちがどのような形で存在し、どのような意味での「自由」や「強さ」を持っていたのかを、異邦人の冷静な観察を通して再評価しようとする試みです。それによって、現代社会における女性の役割や「らしさ」とは何かを、より多角的に考える視点を与えてくれます。
■ 第10章:「子供の楽園」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「子供の楽園」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本における子供たちの生き生きとした姿と、彼らが享受していた独特の「楽園」のような環境について考察しています。
外国人が見た子供たちの自由と幸福感
当時の日本を訪れた多くの外国人、例えばモース、バード、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)らは、日本の子供たちが驚くほど陽気で、自由で、幸福そうであったことを記録しています。彼らは、西洋社会の子供たちに見られるような抑圧や厳しさが少なく、のびのびと育っている様子に感銘を受けました。
規律と自由の共存
当時の子供たちは、社会の規範や年長者への敬意といった基本的な礼節は教えられていましたが、現代のような過剰な管理や早期からの受験競争といったものとは無縁でした。彼らは、大人たちの働く姿を間近に見ながら遊び、自然の中で身体を動かし、自ら工夫して遊びを見つける中で、自律性や創造性を育んでいました。これは、厳格な規律がある一方で、子供たちに広い遊びの空間と精神的な自由が与えられていたことを示唆します。
共同体の中での成長
子供たちは、家族だけでなく、近所の人々や地域全体に見守られながら育ちました。親和と礼節の章で述べられたように、人々は互いに親切で、子供たちに対しても温かい眼差しを向けていました。子供たちは、共同体の一員として自然に振る舞い、大人たちの生活や労働に触れることで、社会の仕組みや人間関係を肌で学んでいきました。
遊びが持つ教育的な意味
当時の子供たちの遊びは、単なる暇つぶしではなく、知恵や身体能力、社会性を養う上で重要な意味を持っていました。自然の中で行う遊びや、共同体の中での役割を模倣する遊びなどを通じて、彼らは生活に必要なスキルや知識、そして人との関わり方を自然に身につけていきました。
近代化が奪った「楽園」
渡辺京二は、明治以降の近代化が、こうした子供たちの「楽園」を次第に失わせていったと指摘します。西洋式の教育制度の導入、産業化による生活様式の変化、都市化の進展などが、子供たちが自由に遊び、共同体の中で育つ環境を奪い、彼らを画一化された学校教育や管理された空間へと閉じ込める結果になったと論じます。かつての生命力あふれる子供たちの姿は、現代社会では見られにくくなった「逝きし世の面影」の一つとして描かれています。
この章は、当時の子供たちが享受していた精神的な豊かさと、それが近代化の過程でどのように変容していったのかを浮き彫りにすることで、現代の子供たちの育成環境や教育のあり方について深く問い直す視点を提供しています。
■ 第11章:「風景とコスモス」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「風景とコスモス」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目にした、当時の日本の自然観、風景のあり方、そしてそれが人々の精神世界や生活とどのように結びついていたか、つまり日本独自の**コスモス(宇宙・秩序)**を深く考察しています。
人工と自然の融合した美しい風景
外国人たちは、日本の風景が単なる手つかずの自然ではなく、人間が手を加えることでむしろ美しさを増していることに驚きました。棚田、段々畑、手入れされた庭園、曲がりくねった小道など、人々の営みが自然の中に溶け込み、調和した「田園の美」を形成していました。これは、自然を征服の対象と見る西洋の自然観とは対照的で、自然と人間が共生する独特の景観として認識されました。
自然を畏敬し、親しむ精神性
当時の日本人は、自然を畏敬し、同時に親しむという二重の感情を持っていました。山や川、森には神が宿るとされ、自然災害は畏れるべきものとして認識されていました。しかし同時に、人々は桜や紅葉を愛で、月見や雪見を楽しむなど、自然の美しさや恵みを日常生活の中に積極的に取り入れていました。自然は、単なる背景ではなく、生活と精神の源泉であったのです。
自然の中に秩序と意味を見出す「コスモス」
著者は、当時の日本の風景が、単なる視覚的な美しさだけでなく、人々の精神世界や宇宙観を映し出す「コスモス(秩序ある全体)」であったと論じます。自然の循環、四季の移ろい、そこに根ざす人々の暮らしや信仰が一体となり、独自の世界観や価値体系を形成していました。これは、西洋の理性が構築する普遍的な秩序とは異なる、日本固有の有機的で多神教的な世界観の現れでした。
人々の生活に息づく芸術性
庭園、生け花、盆栽といった芸術は、自然を凝縮し、その美を表現するものであり、多くの人々の生活に浸透していました。また、当時の建築物も自然の木材を生かし、周囲の環境と調和するように建てられていました。これらは、自然に対する感性と、それを形にする日本人の高い美意識を示すものでした。
近代化による「風景」の変質と「コスモス」の喪失
渡辺京二は、明治以降の近代化が、こうした自然と人間が織りなす「風景」を破壊し、それによって支えられていた日本独自の「コスモス」が失われていったと指摘します。効率性や合理性を追求する西洋的な開発は、自然を資源と見なし、風景から生命感や精神性を奪っていきました。かつて一体であった生活と自然が分離され、人々はかつての豊かな景観と、それに裏打ちされた精神的基盤を失うことになったと論じられています。
この章は、単なる過去の風景描写に留まらず、近代化がもたらした自然観の変容、そしてそれが日本人の精神や文化に与えた深い影響について考察しています。かつて日本人が自然の中に見ていた秩序と意味、そしてそれが現代において失われたことへの警鐘が込められています
■ 第12章:「生類とコスモス」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「生類とコスモス」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本社会における動物(生類)と人間との関係性、そしてそれが織りなす独特の**コスモス(宇宙観・世界秩序)**について深く考察しています。この章は、前章「風景とコスモス」で扱われた自然観をさらに踏み込み、生命全体への日本人の視線を浮き彫りにします。
動物への慈愛と共存
外国人たちは、当時の日本人が動物に対して極めて慈悲深く、共存を重んじる態度を取っていたことに驚いています。例えば、犬や猫が自由に町を歩き、人々がこれらを追い払うどころか、餌を与え、大切に扱っている様子が多くの記録に残されています。これは、西洋で動物が主に労働力や食料、あるいは害獣として扱われる傾向にあったことと対照的でした。特に、日本では殺生を避ける仏教的観念が根付いており、それが動物に対する態度にも反映されていました。
生き物全体への敬意
この章でいう「生類」とは、動物だけでなく、昆虫、魚、鳥類、さらには植物を含むあらゆる生命体を指します。日本人には、これら全ての生き物が固有の生命を持ち、それぞれの場所で生きているという認識がありました。セミの鳴き声を聞き、ホタルを愛で、金魚を飼育するなど、自然の小さな生き物たちにも美しさや命の輝きを見出し、彼らと共に暮らすことを喜びとする感性がありました。
食肉文化の希薄さと独自の食習慣
当時の日本では、一般的に肉食がほとんど行われていませんでした。これもまた仏教的背景が強く影響しており、殺生を忌避する思想から、動物を食べる習慣が西洋に比べて格段に少なかったのです。外国人は、日本人が穀物、野菜、魚介類を中心に、非常に質素ながらもバランスの取れた食事をしていたことに注目しています。これは、西洋の「食うか食われるか」といった食物連鎖の観念とは異なる、生き物との関係性を示しています。
人間中心主義ではない「コスモス」
当時の日本人の世界観は、西洋のような人間が自然や動物を支配するという人間中心主義とは一線を画していました。むしろ、人間もまた自然の一部であり、他の生き物たちと共にこの世界を構成する存在であるという**「生命の環」**の中に自らを位置づけていました。この共生的な関係性が、日本独自の「コスモス」を形成していたのです。
近代化による「生類観」の変容
渡辺京二は、明治以降の近代化、特に西洋文明の導入が、この伝統的な「生類観」を大きく変質させていったと指摘します。西洋から肉食文化や科学的な動物観、効率を重視する畜産技術などが持ち込まれることで、それまで自然であった動物への慈愛や、生類全体への敬意が薄れていきました。動物は「資源」や「家畜」として、より経済的・合理的な視点から捉えられるようになり、かつての有機的な共生の「コスモス」が崩れていったと論じられています。
この章は、単に過去の動物との関わりを描くだけでなく、近代化がもたらした価値観の変容、そして人間が自然や他の生命体との関係性をどのように捉え直すべきかという、現代にも通じる深い問いを投げかけています。
■ 第13章:「信仰と祭」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「信仰と祭」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本社会における信仰のあり方、多様な祭り、そしてそれが人々の生活と精神にいかに深く結びついていたかについて考察しています。この章は、西洋の一神教的な信仰とは異なる、日本固有の多神教的・アニミズム的な世界観を浮き彫りにします。
多様な神々と遍在する信仰
外国人たちは、日本にキリスト教のような単一の絶対神が存在せず、**無数の神々(八百万の神々)**が自然界のあらゆる場所に宿ると信じられていることに驚きました。山や川、森、岩、古木、さらには生活道具に至るまで、いたるところに神性を見出すアニミズム的な信仰は、西洋の合理主義的な視点からは理解しがたいものでした。しかし、それは日本人にとって極めて自然な世界観であり、生活の根底に深く根差していました。
厳格さよりおおらかさを伴う信仰形態
日本の信仰は、西洋のような教義の厳格さや、罪の意識を伴うものではなく、よりおおらかで実践的なものでした。人々は、神仏に日々の感謝を捧げ、豊作や無病息災を祈り、困りごとがあれば神仏にすがる、という形で信仰を生活に取り入れていました。信仰は、日々の暮らしに安らぎや活力を与えるものであり、決して人々を抑圧するものではありませんでした。
生活と一体化した「祭」の役割
「祭」は、当時の日本人にとって単なる娯楽ではなく、信仰そのものであり、生活のサイクルと深く結びついた重要な行事でした。四季折々の祭りは、五穀豊穣を祈り、悪疫退散を願うなど、共同体の安寧と繁栄を願う場でした。祭りの間、人々は日々の労働から解放され、共に喜びを分かち合い、連帯感を強めました。外国人たちは、祭りの熱気と人々の純粋な歓喜に驚きと感動を覚えています。
宗教的寛容性
日本では、神道と仏教が共存し、相互に影響を与え合いながら独自の信仰形態を築いていました。人々は特定の宗派に固執することなく、必要に応じて神と仏の両方に手を合わせるという寛容な宗教観を持っていました。これは、西洋の歴史における宗教間の対立とは全く異なる様相を呈していました。
近代化による「信仰と祭」の変容
渡辺京二は、明治以降の近代化、特に国家神道の制定や、西洋的な合理主義の導入が、この伝統的な「信仰と祭」のあり方を大きく変容させていったと指摘します。祭りは、本来の共同体的・宗教的意味合いから、形式的な国家行事や観光要素の強いものへと変化していきました。また、科学技術の発展や西洋的な価値観の普及により、自然の中に神を見出す感性や、日々の生活に根差した信仰心が薄れていったと論じられています。かつて日本人を支えていた、生きた信仰と共同体の絆が失われたことへの警鐘が込められています。
この章は、近代化以前の日本人が持っていた、自然や万物への畏敬の念、そしてそれが祭りという形で表現され、共同体の絆を深めていた豊かな精神世界を浮き彫りにします。それは、現代社会が失いつつある、人間と自然、そして共同体の本質的なつながりを再考させる視点を提供しています。
■ 第14章:「心の垣根」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「心の垣根」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本社会における人々の間に存在した独特な「隔たり」や「境界」のあり方、そしてそれが西洋社会のそれとは異なる精神構造や行動様式にどう繋がっていたかを考察しています。この章は、これまでの章で描かれた「陽気さ」や「親和性」と矛盾するように見えて、実はその根底にあった日本独自の社会のあり方を提示します。
公私の区別とおおらかさ
外国人たちは、当時の日本人が公衆の面前で非常にオープンでありながらも、個人のプライベートな空間や感情にはあまり踏み込まない絶妙な距離感を持っていることに気づきました。家屋は壁が薄く、隣近所の生活音が聞こえるような状態であっても、人々はそれをお互いの生活の一部として自然に受け入れていました。これは、西洋的な「プライバシー」の概念とは異なる、おおらかな公私の区別が存在していたことを示唆します。
感情表現と抑制
日本人は、一見すると感情を表に出さないように見えましたが、これは感情の欠如ではなく、状況や相手への配慮からくる抑制でした。外国人たちは、祭りでの爆発的な熱狂や、悲しみの場面での深い共感など、感情豊かな側面も見ています。しかし、日常的には、集団の和を乱さないための自制心が強く働いていました。
「よそ者」への開かれと境界線
「親和と礼節」の章で述べられたように、当時の日本人は見知らぬ外国人に対しても非常に友好的で親切でした。これは、日本人の中に「よそ者」を排斥する意識が希薄であったことを示します。しかし、これは無条件の受け入れではなく、ある一定の**「心の垣根」**、つまり相手の領域を侵さないという暗黙の了解があった上で成り立っていました。土足で家に上がらない、他人の私物に勝手に触れないといった行動は、物理的な垣根だけでなく、心の中の境界線を示していました。
個人と集団のバランス
当時の日本社会は共同体的でありながらも、個人が完全に集団に埋没していたわけではありません。人々は、集団の中での自分の役割を認識しつつも、精神的な自由を保持していました。この「心の垣根」は、個々人がそれぞれの内面世界を持ち、他者とは異なる存在であることを認め合う、健全な個人と集団の関係性の表れでもありました。
近代化による「垣根」の変容
渡辺京二は、明治以降の近代化が、こうした日本独自の「心の垣根」を大きく変容させていったと指摘します。西洋的な個人主義やプライバシーの概念が導入されることで、公私の区別はより明確になり、人々の感情表現や人間関係の距離感も変化していきました。また、効率性や合理性を追求する近代社会においては、かつての共同体の中で培われた、言葉には表れない「心の垣根」を通じた相互理解が失われ、より直接的で明示的なコミュニケーションが求められるようになったと論じられています。
この章は、近代化以前の日本人が持っていた、独特な人間関係のあり方や、個人の内面と社会との接点について考察しています。それは、現代社会における人間関係の希薄さや、プライバシーの過剰な意識、あるいは言葉足らずなコミュニケーションの問題を考える上で、示唆に富む視点を提供しています。
■「あとがき」
渡辺京二の著書『逝きし世の面影』の「あとがき」は、本書の執筆意図、テーマの根幹、そして著者がこの作品を通して読者に何を伝えたかったのかが凝縮された部分です。これまでの各章で詳細に描かれてきた「逝きし世」への著者の思いが、ここで改めて表明されています。
執筆の動機と「文明の死」という認識
著者は、「あとがき」の中で、本書を執筆した最大の動機が、近代化以前の日本に存在した独自の「文明」が、単に変容したのではなく、死滅してしまったという強い認識にあることを明かしています。これは、西洋近代を絶対的な進歩として捉える歴史観への異議申し立てであり、失われた価値への深い哀惜の念が根底にあります。外国人の記録を通して、その失われた文明の輪郭を「幻影」のように蘇らせようとする試みであったと説明されます。
西洋近代への対抗軸としての「逝きし世」
渡辺京二は、本書が単なる懐古趣味ではないことを強調します。むしろ、西洋近代がもたらした価値観や社会のあり方が、本当に人類にとって普遍的で最善のものなのかという問いを投げかけるために、その対抗軸として「逝きし世」の日本を描いたと述べています。かつての日本社会が持っていた、自然との共生、共同体の調和、簡素な中での精神的豊かさといった要素は、現代社会が抱える問題への示唆を与えうると考えているのです。
「野蛮」とされたものの中にあった豊かさ
西洋の進んだ文明の視点から見れば「未開」あるいは「野蛮」とされがちであった当時の日本の暮らしの中にこそ、近代社会が見失ってしまった人間らしい豊かさや幸福の質があったことを著者は訴えかけます。それは、効率性や物質的発展では測れない、人々の精神性、身体性、そして他者や自然との関係性のあり方でした。
史料としての外国人記録の重要性
「あとがき」では、本書の根拠となった幕末から明治初期にかけて来日した外国人たちの記録の重要性が改めて強調されます。彼らは、日本の文化や社会を比較する視点を持っていたため、日本人自身が当たり前すぎて意識しなかった、しかし極めてユニークな特徴を客観的に捉えることができました。これらの記録こそが、「逝きし世の面影」を現代に伝える貴重な証拠となったことが述べられています。
現代社会への問いかけ
最終的に著者は、本書が過去を懐かしむだけでなく、現代社会が何を失い、これからどこへ向かうべきなのかを深く考えるための示唆となることを願っています。物質的な豊かさと引き換えに失われた精神的な豊かさ、環境問題、人間関係の希薄化など、現代社会が直面する課題に対する、過去からのメッセージとして本書を位置づけています。
「あとがき」は、『逝きし世の面影』が単なる歴史書ではなく、現代社会への強い批判と問いかけを内包した、哲学的な作品であることを明確に示しています。それは、失われた過去の文明から、未来への示唆を得ようとする著者の真摯な姿勢が表れた結びの言葉と言えるでしょう。
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思想史家・歴史家・評論家 渡辺京二氏 |
渡辺 京二(わたなべ きょうじ、1930年8月1日 - 2022年12月25日)は、熊本市在住の日本の思想史家・歴史家・評論家。代表作に幕末・明治期の異邦人の訪日記を網羅した『逝きし世の面影』などがある。日活映画の活動弁士であった父・次郎と母・かね子の子として京都府紀伊郡深草町(現:京都市伏見区深草)に生まれる。1938年(昭和13年)、当時かの地で映画館の支配人をしていた父を追って中国・北京に移住、その二年後に大連に移り、南山麓小学校から大連第一中学校へ進む。1947年(昭和22年)、大連から日本へ引揚げ、戦災で母の実家が身を寄せていた菩提寺の六畳間に寄寓する。旧制熊本中学校に通い、1948年(昭和23年)、日本共産党に入党する。同年第五高等学校に入学するが、翌1949年(昭和24年)結核を発症、国立結核療養所に入所し、1953年(昭和28年)までの約四年半をそこで過ごした。1956年(昭和31年)、ハンガリー事件により共産主義運動に絶望、離党する。法政大学社会学部卒業。書評紙日本読書新聞編集者、河合塾福岡校講師を経て、河合文化教育研究所主任研究員。2010年には熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授。2022年12月25日死去。92歳没。
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