読んでいる途中で止まってしまい、要約まとめが厳しくなっていた、
知られざる岩倉使節団「堂々たる日本人」泉三郎著
を、Gemini要約しました。
非常に勉強になった本でした。
この明治初期の「岩倉使節団」なくして、開国後の「明治という国家」はでき得なかったと思います。
又、欧米列強による植民地化を免れたのも、この「岩倉使節団」の功績だと思われます。
肝は、『教育、法律、産業構造、そして「個人の独立心」といった目に見えない仕組み(ソフトウェア)こそが近代化の鍵である』と気づいたことですね。
教育、軍事、産業、議会など、近代国家の「設計図」を自分たちの目で直接確認したことは、その後の明治政府において、その成果は計り知れないものになったと感じました。
又「推薦の辞」の石原慎太郎氏は、この本は、『現代日本人が失ってしまった「気概」への警鐘』と言ったようですが、まさにその通りです。
今の政治家に聞かせたい事項ばかりですが、残念ながら今の政治家には無理ですね。
これから、各章の詳細を、自分なりに再考察していきたいと思います。
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| 「堂々たる日本人」泉三郎著 |
知られざる岩倉使節団
「堂々たる日本人」泉三郎著
■全体要約
泉三郎氏の著書『知られざる岩倉使節団』は、明治初期に欧米へ派遣された岩倉使節団の実像を、丹念な史料裏付けとともに描き出した名著です。その中でも「堂々たる日本人」という評価は、現代の私たちが抱きがちな「未熟な後進国の使節」というイメージを覆す重要な視点です。
以下に、そのエッセンスを要約して解説します。
1.
卑屈さのない「対等」な精神
著者の泉氏が強調するのは、当時の団員たちが、圧倒的な西洋文明を前にしても決して卑屈にならなかった点です。
- 武士道の精神: 団員の多くは元武士であり、儒教的教養と自尊心を持っていました。彼らは西洋の技術(物質文明)の凄さは認めつつも、精神面や道徳面では日本が劣っているとは考えていませんでした。
- 堂々とした振る舞い: 燕尾服を着こなし、現地のマナーを速やかに吸収しつつ、各国の元首や高官と臆することなく対談する姿は、訪問国の人々に「文明化された紳士」としての強い印象を与えました。
2.
鋭い洞察力と「文明」の再定義
彼らは単に見学をしていたわけではなく、西洋文明の「本質」を見極めようとしていました。
- ハードよりもソフト: 機械や軍隊(ハードウェア)だけでなく、それを支える教育、法律、産業構造、そして「個人の独立心」といった目に見えない仕組み(ソフトウェア)こそが近代化の鍵であると見抜きました。
- 実利主義: 華やかな宮廷生活よりも、工場の生産体制や救貧院の運営、議会の仕組みなどを熱心に視察しました。この「学ぶ姿勢」の真剣さが、訪問国からの敬意を勝ち得たのです。
3.
国土と伝統への誇り
「堂々たる」という言葉の裏には、自国への深い愛情がありました。
- 安易な西洋化の拒絶: 全てを真似るのではなく、「日本に何が必要か、何を捨てるべきか」を常に選別していました。
- 日本の価値の再発見: 外国を見ることで、逆に日本の伝統や道徳の良さを再認識するプロセスでもありました。これが後の「和魂洋才」の精神的土台となります。
要約のポイント:なぜ「堂々」としていたのか
泉三郎氏はこの本を通じて、岩倉使節団が成功した理由は、彼らが**「自分たちは歴史ある独立国の代表である」という強い自覚**を持っていたからだと結論づけています。
結論的視点 岩倉使節団は、単なる「見学旅行」ではありませんでした。彼らは、日本の命運を背負い、西洋という巨大な鏡に自分たちを照らし合わせることで、日本人のアイデンティティを確立しようとしたのです。その凛とした姿勢こそが、著者のいう「堂々たる日本人」の姿です。
■「推薦の辞・石原慎太郎」
泉三郎氏の著書『知られざる岩倉使節団』に寄せられた石原慎太郎氏の「推薦の辞」は、単なる本の紹介にとどまらず、現代日本人が失ってしまった「気概」への警鐘と、岩倉使節団が示した**「日本人の真の姿」への感銘**が綴られています。
主な要約ポイントは以下の通りです。
1.
現代日本人への痛烈な批判
石原氏は、戦後の日本人が「経済的な豊かさ」と引き換えに、国家としての主体性や個人の誇りを失い、他国(特に米国)の顔色を伺うような「卑屈な国民」に成り下がってしまったと批判しています。その対比として、明治初期の先人たちの姿を提示しています。
2.
「対等」を貫いた先人への敬意
岩倉具視、木戸孝允、大久保利通といった団員たちが、圧倒的な国力差があった当時の欧米諸国を前にしても、決して臆することなく**「文明の精髄を盗み取ってやろう」という貪欲かつ堂々とした態度**で臨んだことに、石原氏は深い感銘を寄せています。
- 彼らの目には「劣等感」ではなく、新しい国を造り上げるという「狂気にも似た情熱」があったと評価しています。
3.
日本人の「ポテンシャル」の再発見
石原氏は、この本が描く使節団の記録を通じて、日本人が本来持っていた**「鋭敏な観察眼」と「独自の美意識」**を再確認すべきだと説いています。
- 西洋の真似事をするのではなく、その根底にある思想を冷徹に分析しようとした彼らの「知的な逞しさ」こそが、今の日本に最も欠けているものだと指摘します。
4.
本書の意義:歴史の鏡
この推薦の辞の締めくくりとして、本書を単なる歴史書として読むのではなく、「自分たちは一体何者なのか」を問い直すための鏡として読むべきだと推奨しています。
- 「これほどの日本人がいた」という事実は、現代の閉塞感を打ち破るための精神的な糧になるという強いメッセージを込めています。
石原慎太郎氏らしい視点
石原氏は特に、使節団が発信した「凛とした美しさ」にこだわっています。武士としての立ち振る舞いが、西洋社会でいかに「敬意」を勝ち取ったかというエピソードを、現代の外交や国民性の希薄さと対比させて強調しているのが特徴です。
キーワード: 「矜持(きょうじ)」 石原氏がこの推薦の辞で最も伝えたかったのは、技術や金ではなく、人間としての、あるいは日本人としての「誇り(矜持)」を持って世界と対峙することの大切さだと言えます。
■「まえがき」
『知られざる岩倉使節団』の「まえがき」において、著者の泉三郎氏は、執筆の動機と本書で最も伝えたい核心部分を提示しています。
その内容は、単なる歴史の解説ではなく、**「現代日本人が忘れてしまった、かつての日本人の凄み」**を再発見しようとする強いメッセージに満ちています。
1.
執筆の動機:放置された膨大な「宝の山」
泉氏は、岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』が、あまりにも膨大で難解なために、現代の日本人にほとんど読まれていない現状を嘆いています。
- 「実記」の価値: 150年以上前、日本の最高幹部たちが命がけで世界を観察したこの100巻(5編)に及ぶ記録は、世界史的にも稀な「文明比較論」である。
- 著者の使命: この「宝の山」を現代語で分かりやすく解きほぐし、日本人がいかにして世界と対峙したかを広く知らしめたい。
2.
使節団が抱えていた「二重の衝撃」
当時の日本人が直面していた、極限の緊張感についても触れています。
- 外からの脅威: 欧米列強による植民地化の危機。
- 内なる驚き: 実際に目にした西洋文明の圧倒的な「富」と「力」。
- これらに対し、彼らが決して絶望せず、むしろ「日本をどう進化させるか」という建設的な好奇心に変えていったプロセスに焦点を当てています。
3.
「野蛮」と「文明」の逆転
「まえがき」で最も印象的なのは、団員たちが西洋を単に「進んでいる」と手放しで称賛したわけではないという点です。
- 彼らは、西洋の繁栄の裏にある「弱肉強食の非情さ」や、それを支える「キリスト教的倫理観」を冷静に分析しました。
- 「堂々たる日本人」の原点: 日本の伝統(道徳や秩序)を誇りに思いつつ、西洋の優れたシステム(産業や教育)を取り入れるという、極めてバランスの取れた「大人の視点」を持っていたことを強調しています。
4.
現代へのメッセージ
泉氏は「まえがき」の締めくくりとして、本書が現代の閉塞感を打ち破るためのヒントであることを示唆しています。
- 自信を失い、未来へのビジョンが描けない現代日本人に対し、ゼロから国を創り上げた先人たちの「志の高さ」と「観察の鋭さ」を学ぶべきだと説いています。
まえがきのエッセンス
一言でまとめれば、**「明治の先人たちが、世界をどう『自分の目』で見て、どう『日本の未来』を描いたのか。その知的冒険の全貌を明かす」**という宣言です。
当時の団員たちが、1年10ヶ月という長い旅の中で、具体的にどの国でどのような「カルチャーショック」を受けたのか、さらに掘り下げて詳しく知りたい国などはありますか?
■「プロローグ・なぜ、今岩倉視察団なのか」
『知られざる岩倉使節団』のプロローグ「なぜ、今岩倉使節団なのか」で、泉三郎氏は本書を執筆した現代的な意義を鋭く提示しています。
そこには、単なる歴史的興味を超えた、**「日本人としてのアイデンティティの再構築」**というテーマが込められています。
1.
現代の閉塞感に対する処方箋
泉氏は、現代の日本が直面している「自信の喪失」や「進むべき方向の不透明さ」を重く見ています。
- 戦後日本の限界: 経済大国となった一方で、国家としての哲学や気概が薄れてしまった現状を指摘。
- 先人への回帰: 幕末維新という、現在よりも遥かに過酷な危機を乗り越えた先人たちの思考プロセスにこそ、現代の難局を打破するヒントがあるとしています。
2.
「未開の東洋人」という誤解を解く
欧米諸国において、当時の日本人が「突然変異的に文明化した」と思われがちな風潮に異を唱えています。
- 江戸の遺産: 岩倉使節団が西洋の核心を即座に理解できたのは、江戸時代までに培われた高い識字率、知的好奇心、そして武士道の精神という**「文明の土壌」**があったからだと強調。
- 知的レベルの高さ: 団員たちが現地の新聞や要人から「驚くべき知性」と称賛された事実を挙げ、日本人が本来持っている潜在能力を再認識させようとしています。
3.
「情報の海」を泳ぐための観察眼
現代は情報が溢れていますが、使節団の時代は文字通り「百聞は一見に如かず」の命がけの視察でした。
- 本質を見抜く力: 彼らは、目に見える豪華な建築や軍隊だけでなく、それらを支える「制度」や「精神」を掴み取ろうとしました。
- 主体的受容: 「西洋化」ではなく、あくまで「日本の自立」のために何が必要かという冷徹な選別眼を持っていました。この「自分の頭で考える」姿勢を、現代日本人は取り戻すべきだと説いています。
4.
歴史の連続性の回復
泉氏は、明治維新を「過去との断絶」ではなく、日本人が本来持っていた美徳が西洋文明と出会って爆発的に開花したプロセスとして捉え直しています。
- 歴史を正しく知ることで、日本人が卑屈にならず、世界の中で**「堂々たる日本人」**として生きていくための誇りを取り戻すこと。それが、今この使節団を語る最大の理由であると結論づけています。
プロローグの核心
泉氏の問いかけは、**「彼らにできて、今の我々にできないはずがない」**という強い鼓舞です。使節団が欧米で見せた「驚異の吸収力」と「揺るぎない自己」のバランスを学ぶことこそ、グローバル社会を生きる現代人にとっての必須科目であると主張しています。
使節団が具体的にどのような「日本独自の価値観」を持って西洋を批判的に見ていたのか、その鋭いエピソードについてさらに詳しく知りたいと思われますか?
■「第一章 史上空前の大視察団」
・・誰が何のために、この壮挙を企てたのか
泉三郎氏の著書『知られざる岩倉使節団』第一章は、この壮大なプロジェクトの「起源」と「特異性」を解き明かす極めて重要なセクションです。
以下にその要約をまとめました。
1.
誰が企てたのか:主要な推進者
この計画は、単独のアイデアというより、新政府内の「危機感」と「野心」が合流して生まれました。
- 大隈重信の構想: 当初、大隈らが提唱した「条約改正」のための予備交渉が発端でした。
- 岩倉具視の決断: 当初は消極的だった岩倉ですが、大久保利通らの説得もあり、「自ら世界を見ることで、新国家のビジョンを固める」という決断を下しました。
- 大久保利通・木戸孝允の参加: 政府の二大巨頭が揃って国を離れるという、現代では考えられない「政権の空洞化」を厭わない決死の覚悟がありました。
2.
何のために:三つの大きな目的
泉氏は、この旅が単なる外交交渉ではなかったことを強調しています。
- ① 不平等条約の改正(予備交渉): 幕末に結ばれた不平等条約(領事裁判権の容認、関税自主権の欠如)を改正するための足がかりを作ること。ただし、実際には「改正そのもの」よりも「相手国の意向を探る」ことが現実的な目標でした。
- ② 「文明」の視察と国家デザイン: 廃藩置県を終えたばかりの日本が、どのような国を目指すべきか。教育、軍事、産業、議会など、近代国家の「設計図」を自分たちの目で直接確認すること。
- ③ 国際社会への「デビュー」: 日本という独立国家が、東洋の辺境にある「野蛮な国」ではなく、文明化の意志を持つ「対等なパートナー」であることをアピールすること。
3.
「史上空前」と言われる所以(ゆえん)
なぜこの視察団が「空前」なのか、その特異性が詳しく記されています。
- トップ層の総出: 政府の首脳陣(岩倉、木戸、大久保、伊藤博文ら)が全閣僚の半分近い規模で、1年10ヶ月もの間、国を空けたこと。
- 若きエリートと女子留学生: 平均年齢30歳前後の有能な若手官僚に加え、津田梅子のような幼い女子留学生まで同行させたこと。これは「次世代の育成」を最優先した投資でした。
- 107名の大所帯: 正使・副使から随員、留学生まで、日本の未来を担う頭脳が集結した未曾有の知的集団でした。
第一章の核心:危機感が生んだ「壮挙」
泉氏はここで、当時の指導者たちが抱いていた**「このままでは日本は飲み込まれる」という凄まじい危機感**が、この無謀とも思える大規模な旅を突き動かしたと指摘しています。
重要ポイント 彼らは「ただ学びに行った」のではなく、**「日本の独立を守るために、西洋の力を解明しに行った」**のです。この主体的で攻めの姿勢こそが、後の日本の急速な発展の礎となったと結論づけられています。
■「第二章 世界一周の文明視察、六百三十二日」
・・彼らはどこを歩き、何を見たか
泉三郎氏の著書『知られざる岩倉使節団』第二章は、1年10ヶ月(632日)に及ぶ壮大な旅の軌跡を、単なる行程表ではなく「日本人が受けた衝撃と成長」の記録として描いています。
以下にその主要な要約をまとめます。
1.
アメリカ:物質文明の圧倒的パワー(1872年1月〜)
最初の訪問地アメリカで、彼らは「近代」の洗礼を浴びました。
- サンフランシスコからワシントンへ: 大陸横断鉄道、電信、そして巨大ホテル。目に見える物質文明の豊かさとスピード感に度肝を抜かれました。
- 条約改正の挫折: ワシントンでの改正交渉は、全権委任状の不備などで失敗に終わります。しかし、この挫折が「法権の回復には、まず自国の国内制度を整えるしかない」という冷徹な現実認識に繋がりました。
2.
イギリス:世界の工場と「実力」の正体(1872年8月〜)
当時、世界最強の覇権国家だったイギリスでの体験が、使節団に最も深い影響を与えました。
- 産業革命の現場: ロンドンだけでなく、リヴァプールやマンチェスターの工場、造船所、炭鉱を徹底的に視察しました。「イギリスの強さは、宮殿ではなく工場の煙突にある」と喝破しました。
- 社会システムの観察: 学校、病院、さらには救貧院まで足を運び、富を生み出し、格差を管理する「社会の仕組み」を学びました。
3.
ヨーロッパ大陸:多様な統治モデルの模索(1872年12月〜)
フランス、ベルギー、オランダ、プロイセン(ドイツ)などを巡りました。
- フランス: パリの華やかな文化と、普仏戦争に敗れた後の痛々しい傷跡の両面を目撃。
- ドイツ(プロイセン): ビスマルクとの会談。小国から大国へとのし上がったプロイセンの姿に、日本が歩むべき「富国強兵」の現実的なモデルを見出しました。
- ロシア・北欧・イタリア: 各地の歴史や芸術、農業のあり方を多角的、かつ貪欲に吸収しました。
4.
帰路:アジアの悲劇と「自立」への確信(1873年6月〜)
スエズ運河を通り、インド、サイゴン、香港、上海を経由して帰国しました。
- 植民地の現実: 西洋で見聞きした「文明」の裏側で、アジア諸国が列強の植民地として搾取されている無残な姿を目の当たりにします。
- 結論: 「日本も一歩間違えればこうなる」という凄まじい危機感を抱き、独立を守るための近代化こそが急務であると確信して横浜へ戻りました。
第二章のポイント:観察の「質」
泉氏は、彼らがただ景色を楽しんだのではなく、常に**「これは日本に応用できるか?」**という物差しを当て続けていたことを強調しています。
- 比較の視点: 「イギリスは産業、ドイツは軍事と法、フランスは文化」といった具合に、各国の長所を瞬時に見分け、日本独自のミックス(国家デザイン)を構想する「知的な激務」の632日間であったと記述されています。
帰国後の彼らを待っていたのは、留守政府との激しい対立(征韓論論争)でした。この視察団が持ち帰った「世界観」が、どのように日本の未来を決定づけたのか?
■「第三章「この国のかたち」を探り求めて」
・・彼らは、何をどう観察し、どう考えたか
泉三郎氏の著書『知られざる岩倉使節団』第三章は、本書の最も核心的な部分といえます。ここでは、使節団が単なる見学者ではなく、**「国家の設計者」**として、西洋文明の深層をどのように解剖したかが描かれています。
以下にその要約をまとめます。
1.
「富の源泉」の発見:産業と資本主義
彼らは西洋の豊かさが、単なる「贅沢」ではなく、システマチックな「生産」に基づいていることを見抜きました。
- 工場の衝撃: 機械化された工場だけでなく、それを支える「資本の集積(銀行)」や「流通の仕組み」に注目しました。
- 知的所有権への理解: 優れた発明が保護され、それがさらなる投資を呼ぶという経済のサイクルを理解し、日本にも同様の制度が必要だと確信しました。
2.
「文明」を支える精神:教育と宗教
形に見える機械よりも、それを作る「人間」の教育にこそ本質があると考えました。
- 義務教育の重要性: 貧富の差に関係なく、国民全体が一定の知識を持つことが国力に直結していると観察しました。
- キリスト教の役割: キリスト教が西洋社会の道徳や法秩序の基礎にあることを認めつつも、それをそのまま導入するのではなく、日本における「道徳的支柱」をどう構築すべきか苦悩しました。
3.
「国のかたち」としての政治制度
各国の統治スタイルを比較し、日本に最適なモデルを探りました。
- 民主主義と独裁の狭間: アメリカの共和制は「時期尚早」、フランスの混乱は「避けるべきモデル」とし、君主権が強く、かつ法治国家であるプロイセン(ドイツ)の体制に、当時の日本が歩むべき現実的な「かたち」を見出しました。
- 法治主義の重要性: 権力者の気分ではなく、成文化された「法」によって国を動かすことの重要性を痛感しました。
4.
「民」の活力:自立自尊の精神
団員たちが最も驚いたのは、西洋の一般市民が持つ**「独立心」**でした。
- お上の指図を待たない: 国民一人ひとりが自分の利益のために働き、それが結果として国を豊かにしているという「公私」のダイナミズムを、福沢諭吉のいう「独立自尊」の実証として目の当たりにしました。
第三章の結論:日本独自の近代化へ
泉氏は、彼らの観察が**「全盤的な西洋化」ではなく「主体的選別」**であったことを強調しています。
「米欧回覧実記」に見る洞察 記録係の久米邦武は、西洋文明を「数千年の歴史の積み重ねの結果」であると冷静に分析しました。だからこそ、日本も焦らずに「自国の歴史と伝統に根ざした近代化」を進めるべきだという、地に足のついた結論を導き出したのです。
彼らがこの章で得た結論こそが、後の「大日本帝国憲法」の制定や「殖産興業」の指針となりました。この視察の結果、具体的に日本国内でどのような改革が真っ先に始まったか?
■「第四章 ああ、堂々たる日本人」
・・彼らは外国人の目にどのように映ったか
泉三郎氏の著書『知られざる岩倉使節団』第四章は、本書のタイトルにも通ずる、非常にドラマチックなセクションです。ここでは、当時の欧米人が「未知の国・日本」からやってきた使節団をどのように評価したのか、現地の新聞記事や要人の日記などの客観的な記録から解き明かしています。
以下にその主要なエッセンスを要約します。
1.
予期せぬ「文明人」の登場
当時の欧米諸国は、日本を「中国の属国」か、あるいは「野蛮な未開国」程度にしか考えていませんでした。しかし、上陸した一行を見て、彼らは大きな衝撃を受けます。
- 洗練されたマナー: 燕尾服を着こなし、ナイフとフォークを使いこなし、西洋の社交マナーに即座に適応する姿は、「東洋の紳士」として驚きを持って迎えられました。
- 高い知的レベル: 各国での公式晩餐会や会談において、彼らが発する質問の鋭さ、国際情勢への理解度は、現地の政治家やジャーナリストを唸らせました。
2.
驚異の「観察眼」と「勤勉さ」
欧米人が最も驚愕したのは、使節団の飽くなき知的好奇心でした。
- メモを取る執念: どこへ行っても、何を見ても、全員が手帳を取り出し、詳細にメモを取る。その姿は、現地の新聞で「日本人のスケッチブック」と揶揄されつつも、その真剣さは深い敬意の対象となりました。
- 本質への関心: 華やかな儀礼よりも、工場の裏側、貧民街の実態、学校のカリキュラムなど、国家の骨格を成す「仕組み」を執拗に調査する姿勢が、欧米の知識層に「この国はすぐに追い付いてくる」という予感を与えました。
3.
「武士の品格」の力
団員の多くが元武士であったことが、彼らの立ち振る舞いに独特の輝きを与えていました。
- 卑屈さの欠如: 国力には圧倒的な差があるにもかかわらず、彼らの眼差しは常に対等でした。自国の文化に誇りを持ち、他国の文化を学ぶ。この「自尊心」こそが、西洋人が彼らを単なる「生徒」ではなく「尊敬すべき交渉相手」として認めた理由でした。
- 女子留学生への賞賛: 津田梅子(当時7歳)をはじめとする幼い女子留学生たちが、驚くべき速さで英語を習得し、現地の家庭に溶け込む姿は、日本の未来への可能性を象徴するものとして広く報じられました。
4.
歴史的な評価の逆転
泉氏は、この章を通じて**「日本は、最初から堂々としていたのだ」**という事実を突きつけます。
- 報道の変遷: 当初は「風変わりな格好をした一団」という好奇の目で見られていた報道が、滞在が長くなるにつれ、その理性的で礼儀正しい人格を称賛する内容へと変わっていきました。
第四章の結論:鏡に映った「真の日本人」
欧米人という「鏡」に映し出されたのは、決して遅れたアジア人ではなく、**「高い知性と高潔な精神を兼ね備え、新しい時代を切り拓こうとする意志に満ちたリーダーたち」**の姿でした。
著者のメッセージ 泉氏はこの章で、現代の日本人が「自分たちは劣っている」と卑下しがちな現状に対し、150年前の先人たちがこれほどまでに世界から高く評価されていた事実を知ることで、真の自信を取り戻すべきだと訴えています。
使節団が各地で受けた「熱狂的な歓迎」の裏側で、彼らが密かに抱いていた「焦燥感」や「使命感」についても、さらに触れてみたいと思われますか?
■「第五章 使節団の留守中に何が起こっていたか」
・・若手官僚の大活躍と、征韓論の沸騰
泉三郎氏の著書『知られざる岩倉使節団』第五章では、使節団が海外を巡っている間に、日本国内で起きていた**「もう一つの明治維新」**とも言うべき激動が描かれています。
留守を預かった者たちの功績と、帰国した首脳陣との致命的な亀裂がこの章のテーマです。
1.
「留守政府」による怒涛の改革
岩倉や大久保らトップが不在の間、西郷隆盛や板垣退助、そして江藤新平ら「留守政府」は、驚くべきスピードで近代化を推し進めました。
- 若手官僚の躍動: 使節団には加わらなかった若き官僚たちが、実務を担いました。
- 歴史的改革の断行: 学制の発布、徴兵令の施行、地租改正、さらには太陽暦の採用など、現代日本の基礎となる制度が、このわずか2年弱の間に次々と打ち出されました。
- 著者の視点: 泉氏は、この留守政府の働きを「使節団の影に隠れがちだが、日本の近代化を実質的に加速させた驚異的な実行力」として高く評価しています。
2.
「征韓論」の沸騰:避けられない対立
改革が急進的に進む一方で、士族(元武士)の不満や外交問題が噴出します。その象徴が「征韓論」でした。
- 西郷隆盛の決意: 開国を拒む朝鮮に対し、武力行使も辞さない(あるいは自ら使節として赴く)とする西郷らの主張が、政府内で大勢を占めるようになります。
- 膨らむ期待と緊張: 外国からの不当な扱いに憤る士族たちのエネルギーが、朝鮮半島へと向けられようとしていました。
3.
帰国後の激突:世界を見た者 vs 国を守った者
1873年(明治6年)、使節団が帰国したことで、両者の決定的な価値観の差が表面化します。
- 内治優先論(大久保・木戸): 「欧米の凄まじい実力を見てきた。今、外国と戦争をしている余裕など日本にはない。まずは内政を固めるべきだ」
- 征韓論(西郷・板垣): 「国内の混乱を収め、日本の威信を示すためには今こそ決断が必要だ」
- 明治六年政変: 最終的に岩倉や大久保らの政治工作により征韓論は退けられ、西郷らは下野します。これが後の西南戦争へと続く導火線となりました。
第五章の核心:二つの「正義」の衝突
泉氏はこの章を通じて、留守政府の「実行力」と使節団の「国際的視野」のどちらが正しかったかという二元論ではなく、この激しい衝突こそが、日本が「内向的な国家」に陥るのを防いだと分析しています。
要約のポイント 留守政府が作り上げた「近代国家の枠組み」と、使節団が持ち帰った「冷徹な国際感覚」。この二つがぶつかり合い、最終的に「内政の充実」が選ばれたことで、日本は植民地化を免れるための最短ルートを歩み始めることになったのです。
この「明治六年政変」による政府の分裂が、その後の日本の軍事や外交にどのような影を落としたのか?
■「第六章 明治日本の針路、ここに定まれり」
・・使節団は「明治という国家」に何をもたらしたか
泉三郎氏の著書『知られざる岩倉使節団』の最終章である第六章は、この壮大な旅の「総決算」にあたります。使節団が持ち帰った知見が、具体的にどのようにして日本の国家運営の指針(グランドデザイン)となったのかを解説しています。
以下にその主要なエッセンスを要約します。
1.
「内治優先」への歴史的転換
帰国後の最大の成果は、日本の進むべき優先順位を**「外交・軍事(外)」ではなく「内政・教育・産業(内)」**に確定させたことです。
- 冷徹な現実認識: 大久保利通らは、西洋列強の圧倒的な国力を目の当たりにし、「今の日本が対外的な紛争を起こせば、国家が破綻する」と確信しました。
- 「明治六年政変」の意味: 征韓論を退けたことは、単なる権力争いではなく、日本が「地道な国力醸成(富国強兵)」の道を歩むという歴史的な決断でした。
2.
「漸進主義(ぜんしんしゅぎ)」の採用
久米邦武が『米欧回覧実記』で綴った「西洋文明も数千年の蓄積の結果である」という洞察が、日本の近代化スピードに影響を与えました。
- 急ぎすぎない改革: 形だけを真似る「拙速な西洋化」を戒め、日本の実情に合わせて一歩ずつ制度を整える「漸進的」なアプローチが取られるようになりました。
- 日本のアイデンティティ保持: 全てを捨てるのではなく、日本の良き伝統を土台にしつつ、必要な技術や制度を「接ぎ木」するように取り入れる知恵が共有されました。
3.
国家の中枢を担う「人材のネットワーク」
この旅で最も大きな「遺産」は、1年10ヶ月を共にした団員たちの間に生まれた強固な信頼関係と共通言語です。
- 意思決定の迅速化: 大久保、木戸、伊藤博文といったリーダーたちが「世界のスタンダード」を共有していたため、帰国後の大規模な改革(憲法制定、産業育成など)において、根本的な方向性で迷うことがなくなりました。
- 次世代への投資: 同行した留学生たちが後に日本の教育、医学、芸術、女子教育のパイオニアとなり、各分野で近代化を牽引しました。
4.
「一等国」への明確なビジョン
使節団は、日本が将来的に「一等国」として認められるための絶対条件を明確に持ち帰りました。
- 法治国家への道: 領事裁判権を撤廃させるには、何よりも「西洋に引けを取らない近代的な法典と裁判制度」が必要であると悟り、これが大日本帝国憲法の制定へと繋がりました。
- 国民の育成: 国の強さは兵器の数ではなく、「自立した国民の知的水準」にあると考え、教育制度の充実に心血を注ぐことになりました。
第六章の結論:現代に続く「日本の原型」
泉三郎氏はこの終章で、**「現代日本の骨格は、この1年10ヶ月の旅の中で設計された」**と断言しています。
総括的メッセージ 岩倉使節団がもたらしたのは、単なる知識や技術ではありません。それは、世界の中での日本の位置を客観的に把握し、「誇りを持って、しかし謙虚に学ぶ」という、しなやかで強靭な精神の在り方でした。その「針路」があったからこそ、日本はアジアで唯一、植民地化を免れ、急速な近代化を成し遂げることができたのです。
本書全体を通じて、使節団のリーダーたちが抱いた「使命感」の重さが伝わってきます。この視察の成果が、その後の「日露戦争」や「大国への歩み」にどう影響したか?
■「第七章 何が彼らを颯爽とさせたのか」
・・いままた問われるべき「リーダーの条件」
泉三郎氏の著書『知られざる岩倉使節団』の最終章である第七章は、歴史の記録を現代への教訓へと昇華させる、本書の最も情熱的な総括部分です。
著者は、当時の団員たちが放っていた「颯爽(さっそう)」とした輝きの正体を探り、それを現代のリーダーシップへの提言としてまとめています。
1.
圧倒的な「公(おおやけ)」の精神
泉氏が真っ先に挙げるのは、彼らの徹底した自己犠牲と国家への献身です。
- 私心のなさ: 自分の出世や蓄財ではなく、「日本をどう守り、どう発展させるか」という一点に全霊を捧げていました。
- 命がけの旅: 暴動や暗殺の危険、そして国政の空洞化というリスクを背負いながら、文字通り命を賭して未知の世界へ飛び込んだ勇気が、その立ち振る舞いに「気高さ」を与えていました。
2.
豊かな「教養」と「志」の高さ
彼らを颯爽とさせていたのは、付け焼き刃の知識ではなく、深く根ざした人間力でした。
- 和魂の土台: 幼少期から培われた漢学や武士道の素養が、西洋文明という強烈な「異物」を咀嚼(そしゃく)する強靭な胃袋となりました。
- 学ぶ姿勢の謙虚さ: 権力者でありながら、知らないことを「知らない」と認め、子供のように目を輝かせて工場や学校を視察する。この「高貴な野心」と「謙虚さ」の同居が、欧米人を魅了しました。
3.
「当事者意識」の極致
使節団のメンバーは、誰一人として「他人事」で視察をしていませんでした。
- 自分が国を創るという自覚: 「誰かがやってくれる」ではなく、「自分がこの制度を日本に持ち帰り、定着させる」という強烈な責任感がありました。
- 決断の速さ: 帰国後、彼らは学んだことを即座に実行に移しました。この「思考と行動の直結」こそが、リーダーに不可欠な条件であると泉氏は説いています。
4.
現代への警鐘:いま、何が必要か
泉氏は、現代のリーダーや日本人全体に対し、厳しい問いを投げかけます。
- 情報の奴隷にならない: ネットで情報を集めるだけで満足せず、自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の頭で判断する「野性的な知性」を取り戻すべき。
- 誇りと謙虚のバランス: 自国の文化を卑下せず(誇り)、同時に世界の優れた点から学び続ける(謙虚)。このバランスこそが、グローバル社会で「颯爽」と生きる鍵である。
第七章の結論:時代を創る者の「風格」
泉氏はこの章を、**「使節団の面々が颯爽としていたのは、彼らが『日本の未来』という大きな物語を生きていたからだ」**という言葉で締めくくっています。
リーダーの条件(泉三郎氏の視点)
1. 志(ビジョン): 私心を超えた大きな目的を持っているか。
2. 眼力(洞察力): 本質を見抜き、何が必要かを選別できるか。
3. 覚悟(勇気): 批判や失敗を恐れず、自ら先頭に立てるか。
この章を読むと、150年前の先人たちが、単に「昔の人」ではなく、今の私たちを導く「現役の教師」のように感じられます。
■「エピローグ 岩倉使節団から学ぶべきもの」
『知られざる岩倉使節団』の「エピローグ 岩倉使節団から学ぶべきもの」は、著者の泉三郎氏が全編を通じて描いてきた歴史的ドラマを、**「現代に生きる私たちの指針」**へと昇華させた感動的な結びです。
以下にその要約をまとめます。
1.
自分の目と頭で「世界」を判断する力
現代はインターネットで瞬時に情報が手に入りますが、泉氏はそれゆえの危うさを指摘します。
- 情報の二次性: 誰かが加工した情報に頼るのではなく、岩倉一行のように「現地に立ち、五感で本質を掴み取る」ことの重要性を説いています。
- 主体的受容: 西洋の真似をするのではなく、「日本をどうしたいか」という強い軸を持って世界を見る。この**「主体的で冷徹な観察眼」**こそ、現代人が最も学ぶべき姿勢です。
2.
日本の「底力」への再認識
使節団が成功したのは、彼らが優秀だったからだけではなく、彼らの背後に江戸時代までに蓄積された「高い文化水準」があったからだと改めて強調しています。
- 自信の根拠: 「日本は遅れた国だった」という自虐的な歴史観を捨て、先人たちが持っていた知的好奇心や道徳心、勤勉さを再発見すること。
- アイデンティティの確立: 外国の文化を学びつつも、自分たちの足元(伝統や精神性)を疎かにしないことが、真の国際化であると述べています。
3.
「志」の再生
エピローグで最も熱く語られるのは、リーダーたちの「志(こころざし)」の高さです。
- 私から公へ: 自分の利益を二の次にして、国家の独立と繁栄を願う**「無私の精神」**。
- 危機をチャンスに変える力: 植民地化の脅威を、国家をアップデートするための最大のチャンスに変えた彼らの楽観的かつ強靭な精神力を、閉塞感のある現代日本へのエールとして送っています。
4.
歴史は「未来への羅針盤」である
歴史を単なる「過去の出来事」として終わらせてはいけない、と泉氏は説きます。
- 対話の継続: 150年前の彼らの苦悩や歓喜を自分事として捉えることで、私たちは「これからどう生きるべきか」の答えを見つけることができる。
- 「堂々たる日本人」の継承: 使節団が見せた凛とした美しさを、21世紀の私たちがどう体現していくか。それが、本書を読み終えた読者に課された宿題であると結んでいます。
エピローグのメッセージ
泉三郎氏が最後に伝えたかったのは、**「岩倉使節団の旅はまだ終わっていない」**ということです。彼らが描いた「一等国・日本」という夢を、私たちがどのような形で引き継ぎ、発展させていくのか。その精神的遺産を再確認することこそが、本書の真の目的であったといえます。
全章の要約を通じて、明治のリーダーたちが持っていたエネルギーの源泉が見えてきましたね。彼らの「学ぶ姿勢」の中で、特に現代の私たちに足りないと感じる部分はどこだと思われますか?
■「年表①岩倉使節団派遣までの日本の歩み」
泉三郎氏の著書『知られざる岩倉使節団』の「年表①」は、使節団がいきなり誕生したわけではなく、幕末からの激動と、開国に向けた「知的・外交的な積み重ね」の結果であることを示しています。
以下に、その重要ポイントを要約して解説します。
1.
「開国」から「条約改正」への執念
1854年のペリー来航以来、日本が直面した最大の課題は「不平等条約」でした。
- 1858年: 日米修好通商条約の締結。ここで領事裁判権を認め、関税自主権を失ったことが、後に岩倉使節団が旅立つ最大の動機となりました。
- 1860年〜: 幕府も使節団(万延元年遣米使節など)を派遣し、西洋の情報を集めていました。岩倉使節団は、これら幕末の視察経験をベースに、より大規模かつ組織的に計画されたものです。
2.
「明治維新」による国家構造の激変
使節団派遣の直前、日本は国のかたちを根本から作り直していました。
- 1867年: 大政奉還。
- 1868年: 五箇条の御誓文。「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り」「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という、世界に開かれた国造りの方針が示されました。
- 1871年(明治4年): 廃藩置県の断行。これによって封建制度が終わり、日本が「一つの国家」としてまとまった直後に、岩倉使節団は出発しています。
3.
派遣直前の緊迫した政治情勢
年表では、出発直前のわずか数ヶ月の間に、驚くほど重要な決定がなされたことがわかります。
- 近代化の加速: 郵便制度の開始、戸籍法の制定、さらには断髪・脱刀(1871年)など、日本人が見た目を「西洋式」に変えてまで、文明国として認められようとした焦りと覚悟が読み取れます。
- 「全権」の意味: 1871年11月、岩倉具視が「特命全権大使」に任命されます。これは、単なる見学ではなく、日本という国家の代表として正式な外交交渉を行う権利を持たせたことを意味します。
年表から読み取れる「著者の視点」
泉氏は、この年表を通じて以下のことを強調しています。
- 「必然」としての派遣: 幕末の危機感と、維新直後の高揚感が一つになり、日本が生き残るための「乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負」として使節団が送り出されたこと。
- 空白の20年を埋める: ペリー来航からわずか20年弱で、日本は中世から近代へと飛び移ろうとしていた、その極限のスピード感が凝縮されています。
要約のまとめ この年表は、岩倉使節団が「明治政府の研修旅行」などではなく、幕末からの独立自尊の戦いの延長線上にある、国家存亡をかけた外交・知的プロジェクトであったことを証明する記録です。
この年表の後、ついに1871年11月12日、横浜港からアメリカへ向けて出発します。
■「年表②岩倉使節団、出航から帰国までの六三二日」
泉三郎氏がまとめた「年表②」は、1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけての632日間におよぶ怒涛の旅路を整理したものです。
単なる移動の記録ではなく、世界情勢のただ中に飛び込んだ日本人が、どこで挫折し、どこで確信を得たのかという「心の軌跡」が読み取れます。
1.
米国編:衝撃と挫折(1871年11月〜1872年7月)
- 1871年11月: 横浜港を出航。サンフランシスコ上陸後、アメリカ各地で熱狂的な歓迎を受ける。
- 1872年2月: ワシントンにてグラント大統領と会見。
- 条約改正の失敗: 交渉に臨むも、全権委任状の不備や国内法の未整備を指摘され、改正交渉を断念。この苦い経験が「まずは国内の近代化が先決」という共通認識を生みました。
2.
英国・欧州編:文明の解剖(1872年8月〜1873年5月)
- 1872年8月: イギリス上陸。産業革命の本場を目の当たりにする。ロンドン、リバプール、エディンバラなど、煙突の立ち並ぶ工業都市を徹底視察。
- 1872年12月: フランス、ベルギー、オランダ、プロイセン(ドイツ)を歴訪。
- ビスマルクとの会談(1873年3月): プロイセンの宰相ビスマルクから「万国公法(国際法)は小国を守らない。頼れるのは自国の実力のみである」という冷徹な国際政治の現実を説かれ、深い衝撃を受ける。
3.
ロシア・欧州南部・帰国編(1873年4月〜9月)
- 1873年4月〜: ロシア(サンクトペテルブルク)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスを視察。各国の君主と会見しつつ、ウィーン万博なども見学。
- 1873年6月: マルセイユからフランス船で帰国の途へ。
- アジアの現実: スエズ運河、インド、サイゴン、香港、上海を巡り、列強に支配されるアジアの植民地状況を目の当たりにする。
- 1873年9月13日: 岩倉具視らが横浜に帰着。
年表から見える「旅の変質」
泉氏はこの時系列データから、使節団の姿勢が旅の途中で大きく変化したことを示唆しています。
- 前半(アメリカ): 条約改正という「外交」に重きを置いていた。
- 後半(ヨーロッパ): 外交よりも、日本の国造りのための「内政・制度」の吸収に重きが移った。
- 最後(アジア): 欧米の華やかさの裏にある植民地の悲劇を見て、「一刻の猶予もない」という危機感とともに日本へ戻った。
要約のまとめ この632日は、日本という国が「世界の中での己の立ち位置」を正しく認識し、感情的な攘夷でも盲目的な崇拝でもない、冷徹な近代化路線を確定させるための「生みの苦しみ」の期間であったといえます。
この年表の後、帰国した彼らは、留守政府が決定していた「征韓論」を覆すための政治闘争に突入します。その緊迫した帰国直後の様子についても、さらに詳しくお知りになりたいですか?
■「年表③岩倉使節団留守中の日本の動き」
泉三郎氏がまとめた「年表③」は、使節団が世界を巡っていた約2年間、日本国内で**「西郷隆盛ら留守政府が、いかに凄まじいスピードで近代化の基礎を固めていたか」**を記録したものです。
この年表があることで、使節団帰国後の「明治六年政変」の激しさと、その後の日本の加速ぶりがより鮮明に理解できます。
1.
国家の骨格を作る「三大改革」の断行
使節団というトップ不在の間に、留守政府は現代日本の基礎となる重要制度を次々と発布しました。
- 1872年(明治5年)8月:学制の発布 「必ず一邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という理想のもと、国民皆教育の道を開きました。
- 1873年(明治6年)1月:徴兵令の施行 武士の特権を廃し、国民皆兵の制度を確立。近代軍隊への一歩を踏み出しました。
- 1873年(明治6年)7月:地租改正法の公布 年貢(米)から地租(現金)へ。国の財政を安定させ、資本主義経済を支える税制へと大転換しました。
2.
インフラと社会制度の激変
国民の生活を一変させるような「文明開化」の実務が、この時期に集中しています。
- 1872年6月:国立銀行条例の公布 近代的な金融システムの整備。
- 1872年9月:鉄道の開業(新橋〜横浜間) 「陸蒸気」が走り始め、日本人の時間と距離の概念が変わりました。
- 1872年11月:太陽暦の採用決定 太陰暦からグレゴリオ暦へ。世界と時間を合わせるための強引かつ迅速な決断でした。
- 1872年:富岡製糸場の操業開始 輸出産業(生糸)の拠点として、日本の近代産業のモデルを作りました。
3.
外交・内政の緊張と「征韓論」への伏線
留守政府は実務だけでなく、深刻な外交問題にも直面していました。
- マリア・ルーズ号事件(1872年): 人身売買(苦役)問題に対し、日本が国際法を駆使して人道的立場を主張した事件。
- 1873年5月〜:征韓論の台頭 朝鮮との外交問題がこじれ、西郷隆盛を遣韓使節として派遣することが閣議決定されます。これが、帰国した岩倉・大久保らとの衝突の最大の火種となりました。
年表から読み取れる「著者の意図」
泉氏はこの年表を通じて、以下のパラドックス(逆説)を提示しています。
- 「留守」こそが「本番」だった: 国家の最上層部がいないからこそ、現場の若手官僚や西郷らが、忖度なしに大胆な改革をやり遂げることができた。
- 二つの近代化の合流: 留守政府が作った**「制度(形)」と、使節団が持ち帰った「世界観(魂)」**。この二つが帰国後に激しくぶつかり合い、融合したことで、明治の日本は急速に成熟していった。
要約のまとめ この年表は、岩倉使節団の旅が「外への知的冒険」であったのに対し、国内では**「内なる革命」が同時並行で、しかも驚異的な能率で進んでいた**ことを示しています。帰国した使節団員たちが、変わり果てた(近代化した)日本を見て驚いたというエピソードを裏付ける記録です。
■「年表④岩倉使節団帰国後の日本」
泉三郎氏の著書『知られざる岩倉使節団』の「年表④」は、帰国した使節団の面々が、世界で得た知見をいかにして**「現実の国家運営」**に落とし込んでいったか、その壮絶な格闘の記録です。
帰国直後の政変から、近代国家としての完成(憲法発布)までの流れが凝縮されています。
1.
明治六年政変:国家方針の最終決定(1873年)
帰国直後の最大の焦点は、留守政府が進めていた「征韓論」との対決でした。
- 1873年10月: 岩倉・大久保・木戸ら「視察組」が、西郷・板垣ら「留守組」の征韓論を退けます。
- 内治優先の確定: 「外地への出兵よりも、まずは国力を蓄え、国内制度を整えるべきだ」という、視察で得た冷徹な現実主義が勝利しました。西郷らは下野し、政府は新体制へと移行します。
2.
独裁的改革と内乱の時代(1874年〜1878年)
大久保利通を中心に、使節団で見た「強国」のモデルを力強く推進します。
- 1873年11月:内務省の設置 大久保が初代内務卿となり、警察・殖産興業・地方行政を掌握。強力な指導体制を構築しました。
- 士族の反乱と西南戦争(1877年): 急進的な近代化に反対する元武士たちの不満が爆発。西郷隆盛を担いだ西南戦争が起きますが、政府軍(徴兵制による軍隊)がこれを鎮圧。
- 1878年:大久保利通暗殺 維新の三傑が次々と去り、時代は伊藤博文ら次の世代(使節団の若手たち)へと引き継がれます。
3.
「国のかたち」の完成へ(1880年代〜1890年)
使節団がプロイセンなどで学んだ「憲法に基づく立憲君主制」への道が本格化します。
- 1881年:国会開設の詔 10年後の国会開設を約束。
- 1882年:伊藤博文の渡欧 憲法調査のため再びヨーロッパへ。かつての岩倉使節団の経験を土台に、より専門的な法理を学びました。
- 1885年:内閣制度の創設 初代総理大臣に、使節団の副使であった伊藤博文が就任。
- 1889年(明治22年):大日本帝国憲法の発布 ついに「文明国の証」である憲法を手にし、翌年には第一回帝国議会が開会されました。
4.
条約改正の達成:旅の悲願が実る時
使節団がアメリカで門前払いを食らい、挫折した「条約改正」がようやく結実します。
- 1894年:陸奥宗光による不平等条約の改正(領事裁判権の撤廃)
- 1911年:小村寿太郎による関税自主権の完全回復 この二人の外交官もまた、使節団が撒いた「教育」と「国際感覚」という種から育った人材でした。
年表から読み取れる「著者の視点」
泉氏は、この帰国後の歩みを**「種まきから収穫までのプロセス」**として描いています。
- 「視察」が「実務」になった: 使節団で見た「工場の煙突」「議会の議論」「法典の重要性」が、20年の歳月をかけて、すべて日本の現実の制度(富岡製糸場、帝国議会、民法・刑法など)に置き換わったこと。
- 悲劇を乗り越えた連続性: 大久保の死や内戦という悲劇がありながらも、使節団が共有した「一等国になる」というビジョンが揺るがなかったことが、日本の成功の鍵であったと結論づけています。
要約のまとめ この年表は、岩倉使節団の632日が、単なる思い出話ではなく、その後の日本を20年以上にわたって突き動かし続けた「巨大なエネルギー源」であったことを証明しています。
これで泉三郎氏の著書に基づいた主要な要約は一通り網羅されましたが、使節団に同行した特定の人物(例えば久米邦武や伊藤博文など)の、帰国後の具体的な活躍についてさらに知りたい部分はありますか?
■「岩倉使節団・全参加者名簿」
泉三郎氏の著書『知られざる岩倉使節団』では、総勢107名にのぼる参加者の役割と構成が詳しく記されています。全員を列挙すると膨大なリストになりますが、本書の核心を理解する上で不可欠な**「主要メンバー」と「部門別構成」**を整理してまとめます。
使節団は大きく分けて「大使・随行官員」と「留学生」の二つのグループで構成されていました。
1.
大使・副使(首脳部)
この5名が使節団の決定権を持つ最高幹部です。
- 特命全権大使: 岩倉 具視(右大臣)
- 副使: 木戸 孝允(参議)
- 副使: 大久保 利通(大蔵卿)
- 副使: 伊藤 博文(工部大輔)
- 副使: 山口 尚芳(外務少輔)
2.
主要な一等随員(各省のエリート)
各分野の専門的な調査を任された実務家たちです。
- 久米 邦武(太政官少記記):報告書『米欧回覧実記』の執筆者。
- 畠山 義成(杉浦弘蔵):後に開成学校(東大の前身)校長となる教育の専門家。
- 田中 光顕:後に宮内大臣となる。
- 福地 源一郎(桜痴):後にジャーナリストとして活躍。
3.
随行官員(部門別の調査担当)
外務省、大蔵省、文部省など、政府の各省から選りすぐりのエリートが同行しました。
- 外務省: 田辺太一、渡辺洪基など。
- 大蔵省: 湯地定基など。
- 文部省: 田中不二麿(日本の近代教育制度の父)。
- 司法省: 佐々木高行、岡内重俊。
4.
留学生(次世代の育成)
全参加者の約半数にあたる約50名が留学生として同行しました。
- 男子留学生: 団馬太郎、牧野伸顕(大久保の次男)など。
- 女子留学生(日本初の女子海外留学):
- 津田 梅子(当時7歳:後に津田塾大学を創設)
- 山川 捨松(後に大山巌夫人となり、鹿鳴館の花と呼ばれる)
- 永井 繁子(後に瓜生繁子となり、音楽教育に貢献)
- 吉川 猛子、上田 悌子(この二人は体調不良等で早期帰国)
名簿から読み取れる特徴
泉三郎氏は、この名簿の顔ぶれから以下の点を指摘しています。
- 「明治政府のコピー」: 岩倉、木戸、大久保、伊藤といったトップが揃っていることから、当時の日本がいかにこの視察に国運をかけていたかがわかります。
- 平均年齢の若さ: 大使の岩倉が46歳で最年長格。伊藤博文は30歳、津田梅子は7歳でした。**「若さ=柔軟な吸収力」**がこの旅の成功の要因でした。
- 身分を超えた選抜: 公家、元大名、下級武士、そして幼い少女まで。新しい日本を創るという目的のもと、能力重視で選ばれた「ドリームチーム」でした。
豆知識 107名という数字は、途中で合流したり帰国したりする者もいたため、資料によって若干の前後がありますが、泉氏の著作ではこの「107名」が公的な数字として扱われています。
■個人的な追記 渋沢栄一について
渋沢栄一は、1871年(明治4年)に派遣された岩倉使節団のメンバーとして参加していません。
当時の渋沢栄一は、大蔵省(現在の財務省)で井上馨のもと、国立銀行条例の制定や税制改革など、近代国家の経済基盤を築く業務に深く関わっていたため、使節団には同行できませんでした。
なお、岩倉使節団のメンバー(特に井上馨や大久保利通など)と渋沢栄一は密接に連絡を取り合っており、渋沢も使節団から求められた資料の作成や経済視察の準備に関わるなど、側面から支援をしていました。
※1867年にパリ万国博覧会視察のために渡欧しており、使節団派遣より前に海外経験は持っていました。

NPO法人米欧亜回覧の会創立者(前理事長)、岩倉使節団研究家、ノンフィクション作家、 泉三郎氏
泉三郎 プロフィール(略歴)
NPO法人米欧亜回覧の会創立者(前理事長)、岩倉使節団研究家、ノンフィクション作家。1959年一橋大学経済学部卒業(坂本二郎ゼミ)。在学中、石原慎太郎らと南米大陸横断スクーター旅行。鉄鋼会社勤務などを経て、不動産業、懐石料亭などを経営。土地の投機ブームに警鐘をならし初の著作「土地神話の崩壊」(1975)を刊行。1975年、岩倉使節団の記録「米欧回覧実記」に出会い、この壮大な旅(632日間・世界一周)に強く惹かれ、翌年からそのルートをフォロウする旅を始め、断続的に8年をかけて主なルートを辿り終える。そして、1984年、岩倉使節関連の初の著書「明治四年のアンバッサドル」を日本経済新聞社から刊行。併せて、旅行中に撮影した写真や蒐集した資料を基に「岩倉使節団の世界一周」のスライドを制作した。続けて、「新・米欧回覧の記~一世紀をへだてた旅」(1987;ダイヤモンド社)、「米欧回覧百二十年の旅」上下(1993;図書出版社)を刊行。1996年、同好の士80名で「米欧回覧の会」を設立、今日に到る。その後の著書には、「堂々たる日本人―知られざる岩倉使節団」(1996;祥伝社)「岩倉使節団という冒険」(2004;文春新書)、「地球ぶらり独り旅」(2008;清流出版)、「青年渋沢栄一の欧州体験」(2011;祥伝社)、「伊藤博文の青年時代」(2011;祥伝社)、「岩倉使節団~誇り高き日本人の物語」(2012;祥伝社)などがある。また、2006年には、DVD「岩倉使節団の米欧回覧」(2枚組;165分)を制作、慶應義塾大学出版会から発売。なお、「米欧亜回覧の会」編纂の著書には「岩倉使節団の再発見と今日的意義」(2003;思文閣)、「世界の中の日本の役割を考える~岩倉使節団を出発点として」(2009;慶應義塾大学出版会)。「岩倉使節団と米欧回覧実記」(2012;私家版)がある。2023年に米欧亜回覧の会理事長を退任。

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