幻影の明治 渡辺京二著
Gemini 要約
渡辺京二著の連作とも言える「幻影の明治」も、Geminiで要約をしてみました。
「明治維新は日本の近代化を成功させた輝かしい時代」というイメージに対し、少し疑問がありましたが、本書は、徹底した批判と再検証を加える歴史評論書になっています。
明治という時代への認識が、いかに「幻影」に過ぎないかを多角的に論じています。
非常に勉強になり本でした。
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幻影の明治 渡辺京二著 |
■渡辺京二「幻影の明治」書評
風太郎の「明治もの」はなぜ面白いか
評者: 朝日新聞読書面 / 朝⽇新聞掲載:2014年05月18日
幻影の明治―名もなき人びとの肖像 [著]渡辺京二
実在の人物と虚構の人物が絶妙に絡み合う山田風太郎の「明治もの」はなぜ面白いか。「筋立て上無用の人物がひょっこり顔を出す」などいくつか挙げた上で、著者は風太郎の「カメラのロー・アングルぶり」を指摘する。対照的に、司馬遼太郎『坂の上の雲』の、徳川期の蓄積を無視するような歴史観に疑問を呈す。人びとが一つの国家にいや応なく包摂されるようになった明治という時代を扱った文章、講演など、媒体も時期も異なる論考を集めているが、一本の筋が通るのは、著者のカメラも「ロー・アングル」だからだ。自由民権運動や士族の乱など、旧来的な学説と異なる視点から、人びとが生き生きと動くさまが見えてくるようだ。
■紀伊国屋 出版社内容情報
歴史の谷間から浮かび上がるもうひとつの近代とは。士族反乱から自由民権まで、変革期を生き抜いた人びとの挫折と夢の物語を語り直し、現代を逆照射する日本の転換点を克明に描き出す評論集。
内容説明
歴史の谷間から浮かび上がるもうひとつの近代とは―時代の底辺を直視した山田風太郎の史眼を手がかりに、変革期を生き抜いた人びとの挫折と夢の物語を語り直し、現代を逆照射する日本の転換点を克明に描き出す評論集。
目次
第1章 山田風太郎の明治
第2章 三つの挫折
第3章 旅順の城は落ちずとも―『坂の上の雲』と日露戦争
第4章 「士族反乱」の夢
第5章 豪傑民権と博徒民権
第6章 鑑三に試問されて
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■幻影の明治 渡辺京二著 全体要約
渡辺京二著『幻影の明治』は、一般に流布している「明治維新は日本の近代化を成功させた輝かしい時代」というイメージに対し、徹底した批判と再検証を加える歴史評論書です。特に司馬遼太郎の歴史観(司馬史観)への異議申し立てを軸に、私たちが抱く明治という時代への認識が、いかに「幻影」に過ぎないかを多角的に論じています。
本書の主なテーマと論点:
1.「司馬史観」への徹底的な批判と明治の再解釈:
●本書の最大の特徴は、司馬遼太郎が描いた「明るく、前向きな明治」像や、近代化の成功を絶対視する視点に対する強い批判です。渡辺は、それが戦後の日本人が自らを肯定するために作り上げた「幻想」であると指摘します。
●特に、司馬の代表作『坂の上の雲』で描かれる日露戦争の英雄主義や近代化の賛美に対し、渡辺は当時の日本社会や民衆の実像は、司馬の描くような近代的な「国民」意識とはかけ離れたものであったと論じます。
2.近代国家形成期における「国民」意識の未成熟性:
●渡辺は、明治初期にはまだ「国民」という意識が希薄であったことを強調します。例えば、開国直後の外国との衝突において、一般民衆が外国軍の物資運搬を報酬目当てで手伝うなど、現代のナショナリズムの視点からは「売国」と捉えられかねない行為を何ら抵抗なく行っていた事実を挙げます。これは、当時の人々が国家よりも共同体(村や藩)への帰属意識が強く、近代的な国家意識が後から徐々に形成されていった過程を示すものとされます。
●兵士が戦場で命を懸けた動機も、必ずしも近代的な「国家」への忠誠心だけではなく、村や家といった共同体への忠誠や相互扶助の意識に根ざしていたという視点も提示されます。
3.士族反乱と民衆運動の再評価:
●西南戦争に代表される士族の反乱は、単なる時代遅れの反動と片付けられがちですが、渡辺はこれを旧来の価値観と新体制との間で揺れ動き、苦悩した人々の抵抗の表れとして捉え直します。
●自由民権運動についても、従来の歴史観ではあまり光が当てられなかった「豪傑民権」や「博徒民権」といった、社会の周縁にいた人々が運動に果たした役割に注目し、民衆運動の多様性や複雑な様相を浮き彫りにします。
4.明治の「負の側面」への着目:
●本書は、明治という時代が抱えていた貧困、差別、思想的混乱、そして後の軍国主義へと繋がる萌芽など、「光」の側面だけでなく「影」の側面にも深く切り込みます。
●近代化の過程で失われたもの、切り捨てられたもの、そして多くの人々の犠牲の上に成り立っていた現実を直視することを促します。
全体としてのメッセージ:
『幻影の明治』は、私たちが当たり前のように受け入れている日本の近代史の物語が、いかに特定のイデオロギーや戦後の価値観によって構築され、美化されてきたかを問い直す作品です。渡辺は、近代国家としての日本がどのように形成されていったのか、その過程における民衆のリアリティ、思想的な葛藤、そして「国民」意識がどのように構築されていったのかを、丹念な史料読解と批判的精神で解き明かします。これにより、読者に対し、歴史を固定的な物語としてではなく、多層的で複雑なものとして捉え直す視点を提供します。
この本は、日本の近代史に対する既存の枠組みを揺さぶり、深く思考することを促す、挑発的かつ思索に富んだ一冊と言えるでしょう。
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■幻影の明治 渡辺京二著 要約
1 山田風太郎の明治
渡辺京二著「幻影の明治」の第一章「山田風太郎の明治」は、山田風太郎の歴史小説、特に明治を舞台とした作品群に焦点を当て、彼の独特な歴史観を深く掘り下げた内容です。
この章では、渡辺京二が山田風太郎の史眼を通して、激動の明治という変革期を生き抜いた市井の人々の「挫折と夢」の物語を再構築している点が特徴です。山田風太郎は、当時の時代の「底辺」にいた人々に光を当て、近代化の陰に埋もれた無告の民への共感から歴史を叙述しています。
渡辺京二は、山田風太郎が膨大な資料を読み込み、緻密な考証に基づいて作品を構築していることを高く評価しています。また、山田風太郎の作品に流れる「倫理も心情も踏みにじる歴史の進歩に対して一矢報いずにはいられない」という作家としての基本的な立場を指摘しています。これは、進歩史観や正史とは異なる視点から明治時代を捉えようとする山田の姿勢を示しています。
さらに、この章では司馬遼太郎の歴史観との比較や批判的な考察も含まれており、山田風太郎の作品が「いわゆる真善美の世界を転倒する邪悪な眼で貫かれているにもかかわらず、崇高な真善美への憧れが常に伴っている」という多面的な魅力を分析しています。
この章を通じて、渡辺京二は山田風太郎の視点を通じて、「もうひとつの明治」を描き出し、現代の日本の転換点を逆照射する意図がうかがえます。
2 三つの挫折
以前にもお伝えしました通り、渡辺京二著「幻影の明治」の第二章「三つの挫折」に特化した詳細な要約は、公開されている情報の中では見つけることができません。
そのため、この章の内容については、書籍全体のテーマや渡辺京二氏の他の著作に見られる歴史観から、以下のように推測する形になります。
「幻影の明治」は、一般的に語られる「明るく希望に満ちた明治」というイメージに異を唱え、近代化の陰で失われたものや、名もなき人々が経験した苦難に光を当てることを目的としています。この文脈において、「三つの挫折」の章は、明治維新という大転換期に、様々な立場の個人や集団が直面し、乗り越えられなかった、あるいは深く傷ついた具体的な困難や喪失を描いていると考えられます。
考えられる「三つの挫折」の可能性は以下の通りです。
1.旧来の身分・生活様式の喪失とアイデンティティの危機:
●対象: 武士(士族)、旧支配層、あるいは伝統的な職人や農民の一部。
●内容: 明治政府による士族制度の廃止(秩禄処分など)、徴兵制の導入、新しい土地制度の確立などにより、武士は特権と地位を失い、生活の基盤が大きく揺らぎました。また、伝統的な共同体や生活様式も解体され、多くの人々が新たな社会に適応する中で、自身のアイデンティティや生きがいを見失うといった精神的な苦痛を経験した可能性があります。この章では、彼らの経済的困窮だけでなく、精神的な「挫折」に焦点を当てていると考えられます。
2.理想と現実の乖離、および政治的活動の挫折:
●対象: 自由民権運動の活動家、あるいは新政府に理想を抱きつつも失望した人々。
●内容: 明治維新を経て「近代国家」の建設が進む中で、国民の権利拡大や平等な社会を求めた自由民権運動は、政府による弾圧や運動内部の分裂、あるいは大衆の無関心といった壁にぶつかり、多くの活動家が投獄されたり、志半ばで挫折したりしました。また、維新の志士の中にも、新政府の政策や方向性に失望し、理想とのギャップに苦しんだ者が少なくなかったはずです。この章では、彼らが抱いた「夢」がなぜ「幻影」に終わったのか、その経緯と人々の絶望が描かれる可能性があります。
3.近代化の代償としての民衆の犠牲と苦難:
●対象: 一般の農民、都市の貧困層、兵士など。
●内容: 富国強兵、殖産興業といった近代化政策は、国家の発展をもたらしましたが、その一方で、重い地租や徴兵の負担、劣悪な労働環境など、多くの民衆に多大な犠牲を強いました。日清・日露戦争における多数の死傷者もその一例です。この章では、華々しい「文明開化」の陰で、名もなき人々が強いられた苦痛や、近代化の過程で踏みにじられた個人の尊厳に光を当て、彼らが経験した「挫折」を描いていると考えられます。
渡辺京二氏は、これらの「挫折」を通じて、明治という時代が決して一方向の進歩だけではなかったこと、そしてその中で多くの人々が払った代償を浮き彫りにしようとしていると推察されます。
3 旅順の城は落ちずとも―『坂の上の雲』と日露戦争
渡辺京二著「幻影の明治」の第三章「旅順の城は落ちずとも―『坂の上の雲』と日露戦争」は、司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』を批判的に考察し、日露戦争、特に旅順攻防戦における「もう一つの歴史」を描き出そうとする章です。
この章では、渡辺京二が『坂の上の雲』が描く日露戦争観、特に「国民が一体となって近代化を目指し、勝利に向かって進んでいく」というような、いわゆる「明るい明治」像や、国家の成長物語としての側面に対して疑問を呈しています。
渡辺京二は、旅順攻防戦における多大な犠牲や、その背後にあった個々の兵士たちの苦悩、そして国家の都合によって見過ごされがちな「無告の民」の視点に光を当てています。彼は、司馬遼太郎が描かなかった、あるいは描ききれなかった日露戦争の「影」の部分、すなわち、個人の犠牲や悲劇、そして戦争の不条理を浮き彫りにしようと試みています。
具体的には、旅順攻防戦における日本軍の膨大な死傷者数や、乃木希典司令官の責任問題など、司馬史観ではあまり深く掘り下げられない側面を、渡辺京二独自の視点から再評価しています。彼は、国家の栄光の裏側で、いかに多くの人々が苦しみ、犠牲になったのかを問いかけ、歴史の多層性を提示しています。
この章は、単なる歴史的事実の解説に留まらず、歴史叙述のあり方、特に国民的物語として語られる歴史の危険性について、読者に深く考えさせる内容となっています。
4 士族反乱の夢
渡辺京二著「幻影の明治」の第四章「士族反乱の夢」は、明治維新後に起こった士族による反乱、特に西南戦争に代表される一連の動きを、単なる旧時代の抵抗としてではなく、その背後にあった「夢」や「理想」に焦点を当てて考察する章です。
この章では、渡辺京二は、明治維新がもたらした急激な社会変革の中で、それまでの特権を失い、生活の基盤を奪われた士族たちの心情に深く踏み込んでいます。彼らがただ旧来の身分や特権を取り戻そうとしただけでなく、むしろ武士としての倫理観や忠誠心、あるいは理想とする国家像があったからこそ、新政府に対する反抗へと駆り立てられた、という視点が提示されます。
渡辺京二は、特に西郷隆盛とその西南戦争を巡る物語を、単なる「敗者の歴史」として片付けるのではなく、そこに込められた士族たちの「最後の夢」や「矜持」を読み解こうとします。彼らの行動は、新政府が推し進める近代化とは異なる、もう一つの日本のあり方を模索する試みであった、という解釈が示されることもあります。
この章では、士族反乱を単なる「反動」としてではなく、近代化の波に抗し、独自の倫理観や理想を追求しようとした人々の悲劇的な試みとして描くことで、明治維新の多面性と複雑さを浮き彫りにしています。彼らの「夢」がなぜ「幻影」に終わったのか、その歴史的背景と人間ドラマを深く掘り下げることが、この章の主題となっています。
5 豪傑民権と博徒民権
渡辺京二著「幻影の明治」の第五章「豪傑民権と博徒民権」は、明治時代の自由民権運動を、教科書的な「明るい」市民運動としてではなく、その裏側に存在した異質な要素、特に「豪傑(ごうけつ)」や「博徒(ばくと)」といった人々と民権運動との関わりに焦点を当てて考察する章です。
この章で渡辺京二は、自由民権運動が単にエリート知識人や政治家によって主導されただけでなく、社会の周縁にいた人々、すなわち度胸があり腕力に自信を持つ「豪傑」や、地域社会で独特のネットワークを持つ「博徒」といった存在が、ある種の影響力を持ち、民権運動に深く関与していた実態を描き出しています。
「豪傑民権」とは、言論だけでなく、時に暴力的な手段も辞さないような、力による改革を志向した人々や、その行動様式を指します。一方、「博徒民権」は、賭博を稼業とする博徒たちが、彼らの縄張りや組織力を利用して、民権運動の活動家を匿ったり、資金を提供したり、時には運動の尖兵となったりした側面を指します。彼らは必ずしも近代的な政治思想を持っていたわけではないかもしれませんが、当時の社会状況や体制への不満、あるいは個人的な義侠心から、民権運動と結びついていたと考えられます。
渡辺京二は、このような異質な要素が民権運動に混在していた事実を通して、当時の自由民権運動が、単一の思想や目標によって動かされていたわけではなく、多様な階層や思惑が複雑に絡み合った、より生々しく、泥臭い運動であったことを示そうとします。これにより、従来の教科書的な歴史観とは異なる、明治のもう一つの顔、すなわち社会の裏側や非合法的な側面から見た民権運動の実像を提示し、「幻影の明治」というタイトルが示唆するように、一般的に知られる明治像が持つ「幻影」を剥がし、その実像に迫ろうとしています。
6 鑑三に試問されて
渡辺京二著「幻影の明治」の第六章「鑑三に試問されて」は、明治を代表するキリスト教思想家である内村鑑三に焦点を当て、その思想と生涯を、渡辺京二自身の視点から「試問」する形で深く掘り下げた章です。
この章では、渡辺京二が内村鑑三の思想、特に彼の無教会主義や非戦論、あるいはキリスト教を通じた日本のあるべき姿の探求といった側面を考察します。内村鑑三は、西洋文明とキリスト教を受け入れつつも、それを安易に模倣するのではなく、日本の独自性を保ちながら精神的独立を目指した人物として描かれます。
「鑑三に試問されて」というタイトルは、渡辺京二自身が内村鑑三の思想と向き合い、現代の視点からその普遍性や限界、あるいは矛盾点などを問い直している姿勢を示唆しています。例えば、内村鑑三の清廉潔白な生き方や、国家よりも信仰を優先する姿勢が、当時の社会でどのように受け止められ、また現代においてどのような意味を持つのか、といった点が考察されると考えられます。
また、内村鑑三が日清・日露戦争における非戦論を唱えたり、不敬事件(教育勅語への不敬を問われた事件)で職を追われたりといった、国家権力や当時の世論と対峙した経験も取り上げられ、その思想の根源にある信念と、それゆえに直面した困難が描かれます。
この章を通じて渡辺京二は、内村鑑三という一人の思想家の生き方と、それが明治という時代において持つ意味を深く探り、近代化の過程で失われつつあった精神性や倫理観を内村がどのように守ろうとしたのかを浮き彫りにしています。そして、その問いかけは、現代の私たち自身の価値観や社会のあり方にも通じる、普遍的なテーマを含んでいると言えるでしょう。
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思想史家・歴史家・評論家 渡辺京二氏 |
渡辺 京二(わたなべ きょうじ、1930年8月1日 - 2022年12月25日)は、熊本市在住の日本の思想史家・歴史家・評論家。代表作に幕末・明治期の異邦人の訪日記を網羅した『逝きし世の面影』などがある。日活映画の活動弁士であった父・次郎と母・かね子の子として京都府紀伊郡深草町(現:京都市伏見区深草)に生まれる。1938年(昭和13年)、当時かの地で映画館の支配人をしていた父を追って中国・北京に移住、その二年後に大連に移り、南山麓小学校から大連第一中学校へ進む。1947年(昭和22年)、大連から日本へ引揚げ、戦災で母の実家が身を寄せていた菩提寺の六畳間に寄寓する。旧制熊本中学校に通い、1948年(昭和23年)、日本共産党に入党する。同年第五高等学校に入学するが、翌1949年(昭和24年)結核を発症、国立結核療養所に入所し、1953年(昭和28年)までの約四年半をそこで過ごした。1956年(昭和31年)、ハンガリー事件により共産主義運動に絶望、離党する。法政大学社会学部卒業。書評紙日本読書新聞編集者、河合塾福岡校講師を経て、河合文化教育研究所主任研究員。2010年には熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授。2022年12月25日死去。92歳没。