2025年7月31日木曜日

酒の肴・胡瓜と茗荷の青じそ漬け

 ■作家 曾野綾子氏の助言

老年になれば、妻と死別したり、妻が急に入院したりする可能性が出てくる。そのために、簡単な掃除、洗濯、料理ぐらいができない男というのも、賢い生き方とは言えない


酒の肴づくり

胡瓜と茗荷の青じそ漬け


夏の食材、きゅうり、なす、みょうがのおろし生生姜青じそ漬け・・珍味でした。





酒の肴・胡瓜と茗荷の青じそ漬け




きゅうり・なすを、きざんで塩もみ、茗荷は輪切り、青じそは細切り、おろししょうがとめんつゆで味付けし、冷蔵庫で漬け込み。

夏のつまみには最高です。








2025年7月29日火曜日

俺たちの定年後 成毛眞著

 

本を読んだ後に、読後画像を制作しています。


俺たちの定年後 

成毛眞著


2018/11/15読了


真面目に生きてきた人ほど、定年後は、わがままに生きるべきだ。

人生後半戦は「遊べ」。すべてを楽しいほうに変えろ。

いい言葉ですね。しっかりと実践していきたいと思っています。




俺たちの定年後 成毛眞著
 


真面目に生きてきた人ほど、定年後は、わがままに生きるべきだ。
人生後半戦は「遊べ」。すべてを楽しいほうに変えろ。

成毛流・六〇歳からの生き方指南

■60歳になったら、新しい人生を歩みだせ
●新たに何かを手に入れ「ああ、これもやりたいのに時間がない」と嬉しい悲鳴をあげながら過ごすべき
●子供の時になかったもの「プログラミング」との出会い

■定年したら、サラリーマン的生活を捨てろ
●金曜日を1週間の始まりとする・・生活が快適になる
●生活時間の2時間まえ倒し・・早く寝る・・早く起きる・・得なことが多い
●居場所を作る・・自宅を見直す・・長い時間を過ごす場所を

■近所を歩けば、次々と楽しみが見つかる
●地図とデータログが散歩を楽しくする
●古本屋を探す・・空いた喫茶店・・外に読書できる場所
■60歳からは愛想よくしようなんて考えるな
●定年後は好きな相手とだけつきあう

■計画は壮大かつほどほど綿密に立てよ
●定年後の趣味は人生そのもの
●世界とつながる・・ウエザーステーション・・インターネット
●読書も寄り道して、長く楽しむ
●本棚は過去・・積読は未来・・すべき

■あとがき
●定年生活はいつか必ず終わる
●定年後はフリーダムである・・やりたいことをやり、やりたくないことはやらない




日本の実業家   成毛 眞氏

成毛 眞(なるけ まこと、1955年9月4日 - )は、日本の実業家。マイクロソフト日本法人第2代代表取締役社長及びスルガ銀行株式会社の社外取締役を務めた。書評サイト「HONZ」代表。北海道札幌市出身。北海道札幌西高等学校時代は執行部生徒会長として制服廃止を実現した。高校時代の同級生に田中裕子がいる。1979年中央大学商学部卒業。



なかなかいい言葉が多かったです。

「やりたいことをやる」が全てかな。








2025年7月27日日曜日

写句 石段苔(いしだんごけ)

写真家の浅井慎平氏が提唱している、「Haikugraphy」とは、写真と俳句を一つにして表現した、「写句」です。


石段苔(いしだんごけ)

6月に詠んだ写句1句

2016/06/16に詠んだ句です。


石段苔(いしだんごけ)

梅の雨石段苔は門覗き





写句 石段苔(いしだんごけ) 2016/06/16制作




梅雨時の、鎌倉妙法寺の石段の苔は、まるで仁王門を覗いているような、気配を感じます。

静寂の中の仁王門はいいですね。好きなお寺の一つです。









2025年7月26日土曜日

高橋真利子 原画

 

オートシェイプ画は、Excelで面と線の積み重ねで描くイラストです。なかなか面白い絵が描けます。 主に、猫・JAZZミュージシャン・POPミュージシャン・野鳥・花・人物・ポスター画等のオートシェイプ画を制作しています。


日本のシンガー

高橋真利子 原画


2019年制作の2点

2020年制作の1点




2019年制作の原画2点



高橋真利子 原画 2019/08/01制作




高橋真利子 原画 2019/08/01制作




■髙橋真梨子(たかはし まりこ、1949年3月6日 - )は、シンガー&作詞家。1978年にソロデビューし1984年発表の「桃色吐息」の大ヒットをもって<”ペドロ&カプリシャス2代目ボーカリスト”から”シンガー・髙橋真梨子”へ。福岡県福岡市育ち。血液型はA型。夫はミュージシャンのヘンリー広瀬。スポーツ観戦を趣味とする。




2020年制作の原画1点



高橋真利子 原画 2020/01/25制作




私の好きなシンガーです。構図に色付けは2020年度版です。

この人の歌はいつ聴いてもいいです。









2025年7月23日水曜日

無名の人生 渡辺京二著

 

無名の人生 渡辺京二著 Gemini要約


AIのGeminiで、以前に読んだ本の要約を試してみました。時間は約30分。

無名の人生 渡辺京二著 Gemini要約


この本の要約はしていませんでした。Geminiが要約するとこうなるんだ・・。

という感想です。ちょっと細かすぎかな。




無名の人生 渡辺京二著




■紀伊国屋書店 出版社内容情報

人の幸せは、生存の非情な面と裏合わせ。そのなかで「自分で自分の一生の主人であろう」としてきた孤高の思想家が語る珠玉の幸福論。

昔の日本人は幸福に暮らす術を知っていた

内容説明
戦前の最先端都市、大連で少年期を過ごし、その後の熊本への引揚げですべてを失い、戦後を身ひとつで生きぬいてきた著者。「自分で自分の一生の主人であろう」としたその半生をもとに語られる幸福論。




渡辺京二著 「無名の人生」 Gemini要約


■ 序 人間、死ぬから面白い 

渡辺京二著「無名の人生」の序章「人間、死ぬから面白い」は、以下のような内容を要約しています。

テーマ
この序章は、「人間が死ぬからこそ人生は面白い」という著者の根本的な思想を提示しています。これは、自己顕示欲が蔓延する現代社会に対するアンチテーゼとして、無名であることの価値を問いかけています。

著者の理想
渡辺京二は、自身の理想として「無名のうちに慎ましく生き、何も声を上げずに死んでしまうこと」を語っています。これは、派手な成功や名声を求めず、静かに生を全うする生き方を尊重する姿勢を示しています。

人生の主体性
生涯を通じて「自分で自分の一生の主人であろう」とすることの重要性が語られています。他者に依存せず、自らの意志で人生を歩むことの意義が強調されています。

幸福論
戦前の大連での少年期から、戦後の引き揚げで全てを失い、裸一貫で生き抜いてきた自身の半生を基に、著者の幸福論が展開されます。これは、成功や出世といった一般的な価値観とは異なる、謙虚で控えめな生き方の中に見出す幸福を描いています。

無名の価値
本章は、偉人だけでなく、無名のままに生きて死んでいった多くの人々が社会を築いてきたという認識を提示し、そうした「普通の人々」への敬意を表しています。野心を持たずとも、自分の置かれた状況を受け入れ、精一杯生きることの中に人生の充実があるというメッセージが込められています。

この序章は、自己実現や成功を追求する現代の風潮とは一線を画し、人間の有限性や無名であることの美学を通じて、独自の人生観と幸福論を提示する導入となっています。



■ 第1章「私は異邦人」

渡辺京二著「無名の人生」の第1章「私は異邦人」の詳しい要約は以下の通りです。

この章では、どのような時代や社会に生まれたとしても、人は「自分の一生の主人」であるべきだという思想が語られています。社会や制度のせいにして何も始まらず、たとえこの世に未練を残して死んでいくとしても、それは自身の生き方がそうさせた結果であり、仕方のないことだと述べられています。また、自分の命を他者の手に委ねて死にたくないという強い意志が示されています。
人間は一人では生きていけないため、家族や国家、社会保障といったものが生まれますが、根源的には孤独を抱えた自己が原点にあると論じられています。生きるということは、その裏で必ず死ぬ者がおり、好むと好まざるとにかかわらず、他者の居場所を奪って生きているという厳しい現実も指摘されています。
それでもなお、自分の人生に誇りを持ち、自分なりの生の旅を歩むことの重要性が強調されています。この章は、著者の孤高な思想と、自分の人生を自らの責任において生き抜くことへの問いかけが込められています。



■ 第2章 人生は甘くない 

渡辺京二著「無名の人生」の第2章「人生は甘くない」は、以下のような内容を要約しています。

人生の厳しさの受容
この章では、人生が必ずしも甘いものではなく、困難や理不尽な出来事が避けられないという現実を直視することの重要性が説かれています。著者は、自身の戦後の厳しい経験(大連からの引き揚げですべてを失い、身一つで生き抜いてきた半生)を背景に、人生の非情な側面を受け入れることの必要性を語っています。

自己の主体性
現代社会において「自己実現」や「成功」といった価値観が主流であることに対し、著者はそれらを「くだらない」と一蹴します。代わりに、社会の役に立つ必要はなく、何よりも「自分で自分の一生の主人であろう」とすることこそが重要であると強調しています。これは、外部の評価や期待に左右されず、自らの内面的な価値観に基づいて生きることを促すメッセージです。

置かれた立場を受け入れる
自分の置かれた立場や状況を謙虚に受け入れることの重要性が述べられています。誰もが野心を持つ時期はあるものの、ほとんどの人はそれが叶わない現実があり、それでも「野心があったなあ」「楽しかったなあ」と思える人生と死に方ができれば十分である、という考え方が示されています。

依存からの脱却
世話になることはあっても依存はしない、という自立した姿勢が示唆されています。例えば、年老いて子供の世話になることがあっても、それは世代間の順送りであり、意地を張る必要はないが、依存は避けるべきであると語られています。

現代社会への異議
現代の主流な人生論に真っ向から異議を唱え、成功や出世といった目標にとらわれず、無名のままであっても、自分の人生を主体的に生き抜くことの価値を問いかけています。

この章は、人生の厳しさを認識しつつも、その中でいかに自分らしく、主体的に生きるかという著者の哲学が色濃く反映されています。



■ 第3章 生きる喜び
 
渡辺京二著「無名の人生」の第3章「生きる喜び」は、以下のような内容を要約しています。

真の喜びの源
この章では、人間が生きていく上で本当に大切なものは何か、という問いに対する著者の見解が示されています。それは、どんな異性に出会ったか、どんな友に出会ったか、どんな仲間と食事を共にしてきたか、といった人間関係の中にこそ、生きる喜びの本質があるというものです。

幸福の定義
著者は、人の幸せは「生存の非情な面と裏合わせ」であると捉えています。つまり、人生には困難や苦しみが伴うものであることを認めつつも、その中で「自分で自分の一生の主人であろう」とすること、そして人との繋がりの中にこそ、かけがえのない喜びを見出すことができると説いています。

現代社会への示唆
自己実現や成功、出世といった現代社会で重視される価値観とは異なる視点から、真の幸福とは何かを問いかけます。社会的な地位や名声ではなく、日々のささやかな交流や、人間としての根源的な繋がりの中にこそ、生きる喜びが宿っているというメッセージが込められています。

人生観と性格
著者の人生観や幸福論は、彼自身の性格に大きく影響を受けていることが示唆されています。これは、個々人の人生観が、その人の経験や内面と深く結びついていることを示しています。

この章は、物質的な豊かさや社会的な成功だけが幸福ではないという、著者の独自の視点から、人間関係の温かさや、日々の生活の中に見出すささやかな喜びこそが、生きる上での真の充足感をもたらすというメッセージを伝えています。



■ 第4章 幸せだった江戸の人びと

渡辺京二著「無名の人生」の第4章「幸せだった江戸の人びと」は、著者の代表作である『逝きし世の面影』で描かれた江戸時代の人々の生活と精神性に着目し、彼らが現代の私たちとは異なる意味で「幸せ」であったという著者の見解を詳述しています。


江戸時代の人々の幸福観
著者は、現代の「自己実現」や「成功」といった価値観とは異なる尺度で、江戸時代の人々が精神的に満たされた生活を送っていたと論じています。彼らは、現代人が抱えるような「生きづらさ」とは無縁であり、自分たちの境遇を肯定的に受け入れ、その中で幸福を見出す術を知っていたとされます。

「無名」の肯定
江戸の人々は、現代のように個人が突出して名声を得ることを追求する社会ではありませんでした。多くの人々が「無名」のままに一生を終えましたが、著者はそこにこそ幸福な生き方の一つの形を見出しています。彼らは、日々の暮らしや共同体の中での役割を通じて、充実した生を送っていたと考えられます。

共同体の力と自足
江戸時代は、現代のような高度な産業社会ではなく、地域共同体の結びつきが強く、人々は相互扶助の中で生きていました。自給自足に近い生活様式の中で、必要以上のものを求めず、足るを知る精神が育まれていたことが、彼らの幸福感に繋がっていたと考察されます。

現代社会への批判的視座
著者は、江戸時代の人々の生き方を通して、現代社会が物質的な豊かさを追求するあまり失ってしまった精神的な豊かさや、人との繋がりの重要性を浮き彫りにします。現代人が「成功」や「出世」に汲々とする一方で、江戸の人々が享受していたような、内面的な安寧や共同体の中での安心感を問い直す章となっています。

『逝きし世の面影』のエッセンス
この章は、著者の代表作である『逝きし世の面影』で展開された江戸時代の文化や精神性に関する考察のエッセンスが凝縮されており、なぜ江戸の人々が「幸せだった」のかという著者の思想の根幹を理解する上で重要な部分です。


総じて、「幸せだった江戸の人びと」は、現代社会の価値観に一石を投じ、過去の日本の社会に独自の幸福論のヒントを見出そうとする著者の思想が強く表れた章と言えます。



■ 第5章 国家への義理 

渡辺京二著「無名の人生」の第5章「国家への義理」は、著者が国家という存在に対し、どのような視点と距離感で向き合ってきたかを詳述する章です。


国家への「義理」の認識
著者は、国家に対して「義理」という独特の言葉を用いています。これは、国家を盲目的に崇拝したり、絶対的なものとして従うのではなく、あくまで「義理」として最低限の義務を果たすべき対象と捉える、冷静かつ距離を置いた姿勢を示しています。国家は個人にとって時に都合の悪い存在でもあり、その不完全さを理解した上での関係性が語られます。

国家と個人の関係性
この章では、国家と個人の関係性について深く掘り下げられます。著者は、国家は「生活の場」を提供するものであり、国民はその提供の対価として、税を納め、法律を守るといった「義理」を果たすべきだと考えます。しかし、それ以上に国家に過度な期待をしたり、自己犠牲を払う必要はないというスタンスが見られます。

戦時中の体験と国家観
渡辺京二の国家観は、彼自身の戦時中の体験、特に敗戦という苛烈な経験に強く裏打ちされています。国家が個人の生命や生活を顧みず、破滅に導いたという歴史を直視しているため、国家に対する熱狂的な感情や無批判な忠誠を排し、常に冷静な批判精神を保とうとする姿勢が示されます。

「私」という視点の重視
著者は、国家や社会といった大きな枠組みの中で、いかに「私」という個人が主体性を保ち、自らの人生を生きるかという視点を重視します。国家への「義理」を果たす一方で、個人の自由や選択、そして幸福を優先する考え方が根底にあります。

現代社会への問いかけ
この章は、現代においても形を変えて存在する国家への過度な依存や期待、あるいは無批判な同調圧力に対して、冷静な視点を持つことの重要性を問いかけています。国家と健全な距離を保ち、自己の尊厳を失わない生き方のヒントが示されています。

「国家への義理」は、渡辺京二の思想の根幹をなす、国家に対するユニークかつ現実的な認識が示された重要な章であり、彼の「無名の人生」という生き方の選択にも繋がる哲学が読み取れます。



■ 第6章 無名のままに生きたい

渡辺京二著「無名の人生」の第6章「無名のままに生きたい」は、本書全体のタイトルにも通じる著者の核となる思想、すなわち「名声や成功を求めず、静かに、そして主体的に生きること」の意義を深く掘り下げた章です。


無名であることの肯定
著者は、現代社会が個人に「名を残すこと」「成功すること」を強く求める傾向にある中で、むしろ「無名のままで生きたい」という願望を表明し、その価値を力説しています。これは、表面的な華やかさや評価ではなく、内面的な充実や平穏を追求する生き方への賛同です。

幸福と無名の関係
渡辺京二にとっての幸福とは、世間的な成功や名声と直結するものではありません。むしろ、誰にも知られることなく、自分の心を満足させる生き方の中にこそ、真の幸福を見出すことができると考えています。彼は、自分が望む生き方を貫くことで得られる満足感が、外部からの評価よりも重要であると示唆しています。

自己の主体性の確立
「無名のままに生きる」という選択は、他者の期待や社会の価値観に流されず、自らの意志で人生を設計し、その主人公であろうとする強い決意の表れです。この章では、人生における「主人」は常に自分であるべきだという、著者の譲れない哲学が繰り返し語られます。

謙虚な生き方の模索
著者は、無名であることと同時に、「謙虚さ」や「慎ましさ」を重んじる生き方を提示します。それは、自らの能力や立場を過信せず、常に冷静な視点で自分自身や世界を見つめる姿勢であり、過度な自己主張を避けることで得られる心の平穏を重視しています。

現代社会への問いかけ
この章は、常に注目を集め、自己をアピールすることが求められる現代社会において、一石を投じる内容となっています。本当に価値のある人生とは何か、真の幸福とは何かを問い直し、画一的な成功モデルにとらわれない多様な生き方を肯定するメッセージが込められています。

「無名のままに生きたい」は、著者の人生哲学が最も凝縮されており、読者に対して、自分自身の生き方や幸福について深く考えるきっかけを与える、本書の核心とも言える章です。





思想史家・歴史家・評論家 渡辺京二

渡辺 京二(わたなべ きょうじ、1930年8月1日 - 2022年12月25日)は、熊本市在住の日本の思想史家・歴史家・評論家。代表作に幕末・明治期の異邦人の訪日記を網羅した『逝きし世の面影』などがある。日活映画の活動弁士であった父・次郎と母・かね子の子として京都府紀伊郡深草町(現:京都市伏見区深草)に生まれる。1938年(昭和13年)、当時かの地で映画館の支配人をしていた父を追って中国・北京に移住、その二年後に大連に移り、南山麓小学校から大連第一中学校へ進む。1947年(昭和22年)、大連から日本へ引揚げ、戦災で母の実家が身を寄せていた菩提寺の六畳間に寄寓する。旧制熊本中学校に通い、1948年(昭和23年)、日本共産党に入党する。同年第五高等学校に入学するが、翌1949年(昭和24年)結核を発症、国立結核療養所に入所し、1953年(昭和28年)までの約四年半をそこで過ごした。1956年(昭和31年)、ハンガリー事件により共産主義運動に絶望、離党する。法政大学社会学部卒業。書評紙日本読書新聞編集者、河合塾福岡校講師を経て、河合文化教育研究所主任研究員。2010年には熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授。2022年12月25日死去。92歳没。








2025年7月21日月曜日

短歌 鎌倉美人(かまくらびじん)

 

短歌 鎌倉美人


2017年5月に鎌倉の街を歩いていた時に詠んだ1首です。


コロコロと鈴なり美人すれ違い鎌倉の路ふと振り返り





短歌 鎌倉美人(かまくらびじん)2017/05/11制作



■鎌倉美人

鎌倉の路を歩いていると、ときどき着物姿の美人とすれ違うことがあります。

コロコロとなる鈴の音につられて、私はふとふりかえってしまいます。








2025年7月19日土曜日

逝きし世の面影 渡辺京二著

 

逝きし世の面影 渡辺京二著 Gemini要約


渡辺京二が亡くなった2022年12月に購入した、「逝きし世の面影」 渡辺京二著の

内容が膨大で、読むのを怠っていましたが、

最近AIのGeminiで、本の要約を試してみました。時間は約30分、

内容は少しくどいですが、Geminiによる、渡辺京二著 逝きし世の面影の要約が完成です。


「逝きし世の面影」、非常に勉強になった、すごい内容でした。

今後の自分の考え方の基本にしていきたいと思います。


しかし、AI Geminiは、早いですね。なかなか面白い試みでした。

この調子で、他の書籍も試してみたいと思っています。




逝きし世の面影 渡辺京二著




ひとつの異文化としての古き日本に魅了された


紹介記事
渡辺京二さんの代表作『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)。1998年に葦書房より刊行され、2005年に平凡社から再刊

私はずっと売れぬ本の著者であった。それでよいと思っていた。ときには選書になったり文庫化されたりして、部数が万の台に乗ることもなかったわけではないが、私が本筋と思っている著書はだいたい初刷三千、重版なしというのが常態だった。ところがこの本は売れた。ひとつにはそれは、一文の得にもならぬのにことあるごとにこの本を推賞して下さった方が何人もあったからだと思うが、とにかく、葦書房の社長で私の売れぬ本を数々出してくれた故久本三多さんに、彼の生きているときには間に合わなかったとはいえ、少しは申し訳の立った気がした。また刊行当時の社長三原浩良氏にも、三十数年間迷惑ばかりかけて来た相手ゆえ、いくらか負債を返せた思いだった。

しかし、自分の本を買って下さる人がこんなにたくさんいるというのはありがたいのはもちろんだけれど、罰当りな言い草とは思うものの何だか落着かぬ気分でもあった。紹介や批評もたくさん出た。これも落着かぬ気分だった。というのは、私の隠れ願望のことは言わぬにしても、世間には、私が日本はこんなにいい国だったのだぞと威張ったのだと思う人、いや思いたい人が案の定いたからである。

私はたしかに、古き日本が夢のように美しい国だという外国人の言説を紹介した。そして、それが今ばやりのオリエンタリズム云々といった杜撰な意匠によって、闇雲に否認されるべきではないということも説いた。だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇ることにはなかった。私は現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかったので、古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった。この本はそれまで私が重ねて来た仕事からすれば、突然の方向転換のような感じを持った人びともいたらしいが、私の一貫した主題が現代という人類社会の特殊なありように落着かぬ自分の心であった以上、そういったものでもあるまいと自分では思っている。だが、そういうくだくだしたことはこれ以上書くまい。この本が呼び起した反応とそれに対する答は、すでに「逝きし世と現代」(『渡辺京二評論集成Ⅲ・荒野に立つ虹』所収。葦書房、一九九九年刊)と題する小論で述べておいた。

「日本」ということについていえば、私はことごとに「日本」を問題にしなければならぬ状況にうんざりしている。私は「日本」などともう言いたくない。ただ狭くとも自分が所有している世界があるだけで、もちろん国民国家の区分のもとに政治・経済・文化の諸事象が生成している「現実」には責任ある対応が必要と承知はするものの、それはことの一面にすぎないと思っている。私が生きている現実は歴史的な積分としての日本に違いないが、それは私が良くも悪しくも、人類の所有する世界にそういう分出型を通じて参与せざるを得ぬということにすぎない。

近頃は伝統といえば、それはごく近代になって創られたフィクションだというのがはやりである。むろん、そういうことはあろう。では自分は過去とは無縁のまっさらな存在かといえば、そんなことは事実としてありえないので、伝統と呼ぶかどうかは別として、自分とは過去の積分上に成り立ち、そこから自己の決断の軌跡を描こうとする二重の存在でしかない。その意味で私は自分が日本人であることを改めて認める。だが、それは国民国家日本の一員として自分を限定することとは異なる。自分が日本という風土と歴史のなかで形成されたものとして、人類の経験に参与する因縁を自覚するというだけのことである。

因縁はなつかしくもうとましい。私は北京・大連という異国で育った人間である。そういう私にとって、日本は桜咲く清らかな国であった。大連にも桜は咲く。しかし桜より杏の方が多くて、その青みがかった白い花は桜に先がけて開き、桜に似てはいるもののもっとはかなげで、私の好みはこの方にあった。春の盛りにはライラックが咲き、アカシヤの花が匂う。夏はそれこそ群青というほかはない濃い青空。秋が立つのは港から吹く風でわかった。冬はぶ厚い雪雲が垂れこめて、世界は沈鬱なブラームスのように底光りする。中学の八級先輩の清岡卓行さんだけでなく、大連は私にとっても故郷だった。

しかし、それはあくまで異郷であって因縁ではなかった。私はやがて桜咲く「祖国」へ帰った。それは良くも悪しくも因縁であるけれども、私はずっと半ば異邦人としてこの国で過した気がする。といっても、私は日本に対して今ばやりの反逆をしたわけではない。日本に反逆すると称して意気がっている連中は、おのれの無知をさらけ出しているにすぎない。私はただなじめなかったのである。まず第一に、この国の知識人社会の雰囲気になじめなかった。このことはこれ以上今は言わぬとして、自然にも異質さを覚えた。

私は十八歳のとき結核療養所に入って、四年半そこにいた。熊本市から北東へ十キロばかり行ったところにあって、まわりは御代志野という高原状の林野だったが、私はそこで初めてこの国の自然の美しさを感じた。しかし、それは宮沢賢治のイーハトーブふうの美しさで、この国の自然一般とはかなり異なった情趣であったかもしれない。それでも、空のコバルト色の淡さはもの足りなかった。早春はそれでよくても、真夏の淡い青空は気が抜けて感じられた。

それ以来、この国の自然のいろんな情趣に接して、この本の中で外国人が嘆賞しているような自然の美しさの諸相に、私自身気づかなかったわけではないが、それでもこの国の山河をほんとうに心の故郷と思うには、なにか隙間がありすぎた。

私は湿っぽい自然がだめであった。有名な神社仏閣を訪ねて、みんなが苔のみごとさに感心しているとき、私はその苔の湿っぽさがいやなのだから話にならない。渓谷を歩いていても、上を見ている分には樹木が美しいが、踏んでいる地面の落葉の積み重なった湿っぽさがたまらない。野に霞がかかり谷に霧がわく、そんな山水画ふうの幽邃さに深く惹きこまれることはあっても、日本の山河はあまりにも寂しくて、こんなところで死んだらと思うと背中が薄ら寒く感じられる。

だから私はこの本を書いたとき、この中で紹介した数々の外国人に連れられて日本という異国を訪問したのかもしれない。彼らから視られるというより、彼らの眼になって視る感覚に支配されていたのだろうか。私はひとつの異文化としての古き日本に、彼ら同様魅了されたのである。

その古き日本とは十八世紀中葉に完成した江戸期の文明である。その独特の雰囲気については私はその後一冊、本を書いた(『江戸という幻景』弦書房、二〇〇四年刊)。渡辺が描き出すのびやかな江戸時代が一面にすぎず、その反面に暗黒があったのは誰それの著書を見てもわかるという批評を案の定見かけたけれど、それがどうしたというのだ。ダークサイドのない社会などないとは、本書中でも強調したことだ。いかなるダークサイドを抱えていようと、江戸期文明ののびやかさは今日的な意味で刮目に値する。問題はこういうしゃらくさい「批評」をせずにはおれぬ心理がどこから生ずるかということで、それこそ日本知識人論の一テーマであるだろう。

完成した形の江戸期社会の構造と特質については、一度きちんと論じてみたい誘惑を感じないでもない。しかし、残り少い時と精力がそれを許すかどうか。ただ次のことだけは言っておこう。少年の頃、私は江戸時代に生れなくてよかったと本気で思っていた。だが今では、江戸時代に生れて長唄の師匠の二階に転がりこんだり、あるいは村里の寺子屋の先生をしたりして一生を過した方が、自分は人間として今よりまともであれただろうと心底信じている。

この本を出した功徳のひとつは、私の本を読んで下さる人びとの層がいくらか拡がったことだ。以前はごく狭い読者しか意識していなかった。本気で私の本を読んで下さる方は多くて数百人で、それで十分と思っていた。しかし今ではもう少し広い読者の方々が眼に浮かんでいて、そんなふうになれたことが自分では嬉しい。
(平凡社ライブラリー『逝きし世の面影』から「平凡社ライブラリー版あとがき」の一部を抜粋)




■渡辺京二著 逝きし世の面影  Gemini Flash要約



■ 第1章:「ある文明の幻影」 

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「ある文明の幻影」は、明治時代以降の日本の近代化によって失われた、かつての日本に存在した独自の文明を描写しています。


異邦人が見た「夢のように美しい国」 
幕末から明治初期にかけて日本を訪れた西洋人たちは、当時の日本が西洋とは異なる、独自の素晴らしい文明を築いていることに驚嘆しました。彼らの多くは、その文化、風習、人々の暮らしぶりに魅了され、日本を「夢のように美しい国」と表現しました。

近代化による文明の死滅
渡辺京二は、明治維新以降の近代化、すなわち西洋化の過程で、この素晴らしい文明が変貌したのではなく、すでに「死滅してしまった」と診断します。ここでいう「文明」とは、単なる文化や風習の断片ではなく、人々の生活様式、自然や他者との関係性、幸福感に満ちた有機的な社会全体のあり方を指します。

「文化は生きるが、文明は死ぬ」
著者は「文化は生きるが、文明は死ぬ」という視点を提示し、たとえ伝統的な文化の一部が残ったとしても、それはかつての文明の中で生きていたものとは本質的に異なると論じます。

西洋近代との対比
西洋の一神教的な世界観では、神が万物を作り、人間は自然を支配・利用する対象と捉えられます。しかし、日本においては、存在するものは絶対的主体が作ったものではなく、自然と共生し、調和する思想が根底にありました。この自然との関係性の違いも、失われた文明の一側面として描かれます。

幸福で自由な社会
渡辺京二は、当時の日本人がたとえ貧しくとも陽気で豊かであり、自由で、ある種の民主的な生活を送っていたと指摘しています。これは、西洋近代がもたらした「自由な労働力」という概念とは異なる、土地や身分に縛られない人々の伸びやかな社会生活として捉えられています。

「ある文明の幻影」という表現は、この近代化の過程で失われた、しかし異邦人の目には鮮やかに映った、幸福で有機的な日本の文明に対する著者の哀惜と、それを現代に問い直す姿勢を表しています。



■ 第2章:「陽気な人びと」

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「陽気な人びと」は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本人の精神性や社会のあり方を詳細に記述した章です。


異邦人の記録に見る日本人の特性
多くの外国人旅行者や滞在者(モース、シーボルト、ハリス、バードなど)が残した記録には、当時の日本人がきわめて陽気で、礼儀正しく、幸福に満ちた生活を送っていた様子が繰り返し語られています。彼らは貧しさの中でも悲壮感がなく、生き生きとしていたと記されています。

貧しさの中の精神的豊かさ
現代の視点から見れば、当時の日本は物質的に決して豊かではなかったかもしれません。しかし、外国人の目には、日本人は「真の貧しさ」を知らず、むしろ精神的に満たされ、質素な生活の中に多くの楽しみを見出す才能を持っていたと映りました。人々は飾り気がなく、正直で、互いに助け合う精神に溢れていたとされています。

争いを好まない性格と治安の良さ
銃や刀を携帯していてもめったに争いが起きず、子ども同士の喧嘩すら見られなかったという記録が多く残されています。これは、当時の社会が秩序と調和を重んじ、暴力に訴えることを避ける国民性があったことを示唆しています。窃盗などの犯罪も極めて少なく、外国人は日本の治安の良さに驚愕しました。

自然との調和と遊び心
人々は自然を深く愛し、四季折々の美しい風景や行事を楽しみました。日常の仕事の中にも遊びや歌、冗談が常にあり、生活そのものが喜びや楽しみで満たされていました。これは、自然や共同体との一体感を重んじる、当時の日本人の世界観を反映しています。

「自由な」社会の側面
渡辺京二は、当時の日本には西洋的な意味での「自由」はなかったかもしれないが、人々は身分や土地に縛られながらも、ある種の精神的な「自由」と伸びやかさを持っていたと論じます。彼らは物質的な所有欲に囚われず、集団の中で個性を発揮し、人生を謳歌していました。

近代化によって失われたもの
この「陽気な人びと」が暮らした社会は、明治維新以降の近代化、西洋文明の導入によって大きく変容し、その精神性や社会構造は失われていきました。著者は、この失われた「陽気さ」こそが、かつての日本の文明を特徴づける重要な要素であったと指摘しています。

この章は、単なる昔の日本人の性格描写に留まらず、近代化以前の日本社会が持つ独特の価値観、人々の幸福感の源泉、そして現代日本人が失ってしまったかもしれない豊かさについて深く考察する内容となっています。



■ 第3章:「簡素とゆたかさ」 

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「簡素とゆたかさ」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目にした、当時の日本社会における物質的な簡素さと、それによって育まれた精神的・文化的な豊かさについて考察しています。


物質的な簡素さの受容
外国人たちは、当時の日本人の住まい、衣服、食生活などが極めて簡素であることに驚きを表明しています。家屋は木と紙でできており、家具も少なく、装飾も控えめでした。衣服も綿や麻が主で、豪華な装飾は限られていました。しかし、この簡素さは、彼らにとって貧困の象徴ではなく、むしろ生活様式の一部として自然に受け入れられているように映りました。

無駄のない生活様式
日本人の生活は、必要最小限のもので充足し、無駄を徹底的に排除していると認識されました。例えば、座卓や布団など、使用しないときは片付けて空間を有効活用する工夫は、西洋の固定家具中心の生活とは対照的でした。これは、空間の質を重視し、簡素な中に機能美を見出す日本人の美意識とも繋がっています。

清潔さと秩序
物質的に簡素である一方で、日本社会全体が非常に清潔で整然としていたことに、多くの外国人が感銘を受けました。家屋はもちろんのこと、通りや公共の場も清掃が行き届き、人々の身なりも常に清潔でした。この清潔感は、簡素な生活の中での「ゆたかさ」を際立たせる要素でした。

精神的・文化的な豊かさ
簡素な物質生活の裏には、豊かな精神文化が息づいていました。人々は自然を愛し、四季の移ろいや花鳥風月に美を見出す感性を持っていました。詩歌、茶道、生け花、庭園といった芸術や文化は、日常の簡素な生活の中にこそ根ざしていました。また、人々は助け合い、他者への配慮を忘れず、精神的な充足感を持って暮らしていました。

「足るを知る」思想
この簡素さの中の豊かさは、「足るを知る」という東洋的な思想とも深く関連しています。物質的な豊かさを追求するよりも、今あるものに満足し、心の平和や精神的な充足を重んじる生き方が、当時の日本社会には根付いていたと著者は示唆しています。

近代化による喪失
渡辺京二は、明治以降の近代化が、西洋的な物質主義や効率性を追求する中で、この「簡素とゆたかさ」が共存する独特の価値観を失わせていったと指摘しています。かつての日本人が持っていた、物質に囚われない自由で豊かな精神性は、西洋化の過程で薄れていったのです。

この章は、単に過去の生活様式を懐かしむだけでなく、現代社会が物質的な豊かさを追求する中で見失いがちな、本当の「ゆたかさ」とは何かを問い直す契機を与えてくれます。簡素な生活の中にこそ、深い精神的な満足と人間らしい豊かさが存在したという、当時の日本の姿を描き出しているのです。



■ 第4章:「親和と礼節」

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「親和と礼節」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本社会を特徴づける人間関係のあり方、特に人々がお互いに示していた親愛の情と、社会全体に浸透していた礼儀正しさについて深く考察しています。


驚くべき親愛の情と友好的な国民性
多くの外国人旅行者や滞在者(モース、バード、ヒュースケン、ブランデンら)は、当時の日本人が見知らぬ人に対しても驚くほど親切で友好的であったことに感銘を受けています。彼らは、たとえ言葉が通じなくても、常に笑顔で迎え、親身になって助けようとする日本人の姿を記録しています。これは、西洋社会では見られなかった温かい人間関係として認識されました。

徹底した礼儀正しさの普及
人々の間では、身分や年齢に関わらず、非常に洗練された礼節が保たれていました。挨拶、身のこなし、言葉遣いの一つ一つに丁寧さが込められ、それが社会全体の調和を生み出していました。争いごとが少なく、公共の場での無秩序が見られないのは、この礼節が隅々まで行き渡っていたためだと考えられています。

共感と協力に基づく社会
個人主義が発達した西洋社会とは異なり、当時の日本社会は共同体的なつながりが非常に強く、人々は互いに協力し、共感し合うことを重んじていました。困っている人がいれば自然と助けの手が差し伸べられ、集団の和が個人の利益に優先される傾向がありました。このような相互扶助の精神が、社会の円滑な運営を支えていたと指摘されます。

「面子」と「恥」の文化
礼儀正しさの背景には、「面子」を重んじ、「恥」をかくことを避ける文化があったことも示唆されます。これは表面的な形式主義ではなく、相手への敬意と、共同体の中での自分の役割を自覚することから来る内面的な規範として機能していました。

教育と躾の浸透
このような親愛と礼節は、特別な階層に限られたものではなく、市井の人々、さらには子どもたちにも自然に身についていることとして、外国人たちは驚きをもって受け止めました。これは、幼少期からの教育や家庭、地域での躾が、人格形成において極めて重要な役割を果たしていたことを示唆しています。

近代化による「失われた規範」
渡辺京二は、明治以降の近代化、特に西洋的な個人主義や競争原理の導入によって、かつて日本社会を支えていたこの「親和と礼節」の精神が、次第に失われていったと考察します。かつての日本人を特徴づけていた温かい人間関係や細やかな気配りは、現代社会において希薄になりつつある価値観として描かれています。

この章は、単なる過去の日本人像の記述にとどまらず、人間関係の希薄化が指摘される現代社会において、かつての日本社会が持っていた人間性豊かな共同体のあり方、そしてそれを支えていた根源的な規範について深く考えさせる内容となっています。



■ 第5章:「雑多と充溢」

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「雑多と充溢」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本の都市や人々の生活が持つ、活気に満ちた混沌と、そこから生まれる多様性、そして生命力あふれる豊かさを描いています。


活気あふれる雑踏と多様な人々
当時の日本の都市、特に江戸(東京)や大阪、京都などの大都市は、驚くほどの活気に満ちていました。通りには様々な職業の人々が行き交い、露店が並び、物売りの声が響き渡っていました。武士、町人、農民、職人、芸人、行商人など、多様な人々が混じり合い、それぞれの生活を営む姿が、外国人にはエネルギッシュで魅力的に映りました。

空間の有効活用と密度の高さ
土地が限られている中で、人々は住居、店舗、作業場などを巧みに配置し、都市空間を極めて効率的かつ密度の高い形で利用していました。家々は軒を連ね、路地裏まで人々の生活が溢れ出し、一見すると無秩序に見える中に、独自の秩序と機能が息づいていました。

生活と仕事の一体感
現代のように住居と仕事場が分離されることは少なく、多くの職人や商人は自宅兼店舗で働き、その生活の様子が外からも垣間見えました。これは、人々の労働が生活の中に溶け込み、そこから豊かなコミュニティが形成されていたことを示唆します。

五感で感じる豊かさ:
通りには様々な匂い、音、色彩が溢れていました。活気ある会話、職人の叩く音、祭りの音楽、食べ物の香りなど、五感を刺激する情報が「充溢」しており、単調さとは無縁の豊かな体験が日常の中にありました。これは、西洋の都市が持つ、より画一化された空間とは異なる、有機的な生命力に満ちたものです。

自然と人工の混在
都市の中にも水路や菜園、小さな神社仏閣が点在し、自然と人工が巧みに混ざり合っていました。人々は自然のリズムに合わせて生活し、都市の中にいながらも自然の恵みを感じられる環境がありました。

「計画性」とは異なる秩序
近代的な都市計画のような明確な意図に基づいて作られたわけではないのに、当時の都市には人々の生活に根ざした、ある種の自生的な秩序と調和が存在していました。これは、人々の相互理解と柔軟な対応によって成り立っていたもので、効率性だけでは測れない豊かな社会性を示しています。

近代化による「整理」と「喪失」
渡辺京二は、明治以降の近代化が、こうした「雑多と充溢」に満ちた有機的な都市空間や生活様式を、西洋的な合理主義や衛生観念に基づいて「整理」し、「効率化」していった結果、かつての活気や多様性、そしてそこから生まれる豊かさが失われていったと指摘します。現代の均質化された都市空間や生活は、かつての「雑多と充溢」とは対照的なものです。

この章は、単に過去の日本の都市の賑やかさを描くだけでなく、近代化がもたらした利便性の裏で、人々が失ったかもしれない生命力あふれる空間と、多様な価値観が共存する社会の豊かさについて深く考察するものです。



■ 第6章:「労働と身体」

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「労働と身体」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本人の労働のあり方と、それが身体、精神、そして社会全体といかに結びついていたかについて深く考察しています。


身体と一体化した労働
近代の産業労働とは異なり、当時の日本の労働は機械による自動化が進んでおらず、人間の身体そのものが主な道具であり、生産の主体でした。職人の手仕事、農民の農作業、運搬人の力仕事など、あらゆる労働が身体の動きと密接に結びついていました。これは、身体の能力を最大限に活かし、それを鍛え、洗練させていく過程でもありました。

労働の中の美と熟練
外国人たちは、日本人の労働が単なる作業ではなく、しばしば芸術的、あるいは舞踊のような美しさを持っていたことに驚嘆しています。職人たちは、長年の経験と修練によって培われた高度な技術を持ち、その動きには無駄がなく、流れるようでした。これは、労働が生活の糧であると同時に、自己表現の場であり、喜びの源でもあったことを示唆します。

労働と遊びの未分離
当時の労働には、現代のように厳密な労働時間や休憩の区別がなく、労働と遊び、生活が一体となっていました。人々は働きながら歌い、冗談を交わし、祭りや年中行事と結びつくこともありました。労働の中に楽しさや精神的な充足を見出すことができ、労働が単なる苦役ではなかったことが描かれています。

身体のしなやかさと強靭さ
日本人の身体は、当時の生活様式や労働によって、非常にしなやかで強靭であったと外国人によって記録されています。長距離を歩き、重い荷物を運び、過酷な農作業をこなす身体能力は、西洋人にとっては驚くべきものでした。それは、特定の筋肉を酷使するのではなく、全身をバランス良く使うことで培われたものでした。

労働を支える精神性
労働の現場には、常に相互扶助の精神や共同体の絆が存在していました。一人で黙々と作業するだけでなく、協力し合い、励まし合うことで、労働の負担を軽減し、連帯感を育んでいました。また、「足るを知る」という精神性も、過度な競争や物質的欲求に囚われず、自らの労働に満足する態度を形成していました。

近代化による労働の変化と身体の変容
渡辺京二は、明治以降の近代化、特に工場制手工業や機械化の導入が、こうした「身体と一体化した労働」のあり方を根本的に変質させていったと指摘します。労働は細分化され、身体の特定の部位だけを使う単調な作業が増え、人間が機械の歯車の一部となるような状況が生まれました。これにより、かつて労働の中に見出せた美や喜び、身体の総合的な能力は失われ、労働は次第に苦痛を伴うものへと変貌していきました。

この章は、単に過去の労働形態を記述するだけでなく、近代化が人間の身体と精神、そして労働の価値に与えた影響を深く問い直し、現代社会における労働の意味を考える上で重要な視点を提供しています。かつての日本人が持っていた、労働を通して身体を磨き、生活と一体となって生きる豊かさを浮き彫りにしています。



■ 第7章:「自由と身分」

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「自由と身分」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本社会における身分制度の存在と、その中で人々が享受していた、西洋近代のそれとは異なる独自の「自由」のあり方について深く考察しています。


身分制度の存在と外国人による認識
当時の日本社会には、武士、農民、職人、商人といった厳格な身分制度が存在していました。外国人たちはこの制度を認識し、一部ではそれが個人の自由を束縛しているかのように映ったかもしれません。しかし、彼らが実際に見たのは、制度の厳格さとは裏腹に、人々が意外なほどのびのびと生活している姿でした。

「身分」の厳格さと「移動の自由」
渡辺京二は、現代的な視点で見れば固定的な身分制度が存在したものの、当時の人々には想像以上に「移動の自由」があったことを指摘します。例えば、農民が都市に出て職人になったり、丁稚奉公から独立して商人になったりするなど、職業や居住地を変えることは、近代社会で考えられるほど困難ではなかったと論じられます。これは、口減らしや出稼ぎ、あるいは新たな生業を求めるための柔軟な社会移動が存在したことを示唆しています。

身分に縛られない精神的自由と陽気さ
重要なのは、人々が身分によって形式的に規定されていても、精神的には非常に自由で陽気だったということです。彼らは自分の身分を悲観する様子を見せず、与えられた環境の中で最大限に人生を楽しみ、創造性を発揮していました。この精神的な「自由」は、物質的な豊かさや政治的な権利とは別の次元に存在し、外国人たちを驚かせました。

相対的な「貧しさ」の中の「豊かさ」
物質的には貧しいと見られがちな身分の人々であっても、その生活には「陽気さ」「簡素とゆたかさ」の章で述べられたような精神的・文化的な豊かさがありました。彼らは所有欲に囚われず、集団の中での役割と調和を重んじながらも、それぞれの生活の中で自分なりの充足感を見出していました。この感覚は、身分制度の有無とは直接関係のない、より深い人間的な自由の表れでした。

権力への無関心と自立性
当時の人々は、政治的な権力闘争や身分制度の根幹にあまり関心を示さず、むしろ自分たちの日常生活や共同体の営みに集中していました。これは、彼らが形式的な身分に縛られつつも、実生活においてはかなり自律的に行動し、相互扶助の中で生活を営むことができていた証拠であると解釈されます。

近代化による「自由」概念の変質
渡辺京二は、明治維新によって身分制度が撤廃され、近代的な「自由」や「権利」の概念が導入されたことで、かえって人々はかつて持っていたある種の精神的、実質的な自由を失った可能性を指摘します。身分制度が撤廃されたにもかかわらず、近代的な競争社会や経済的な不平等が、新たな形の不自由さや抑圧を生み出した、という逆説的な見解が示唆されます。

この章は、近代西洋的な「自由」の概念を絶対的なものとして捉えるのではなく、当時の日本社会に存在した、身分制度という枠組みの中での独特な、そしてむしろ人間的な「自由」のあり方を提示することで、現代社会における自由の意味を問い直す契機を与えています。



■ 第8章:「裸体と性」

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「裸体と性」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃し、驚きと戸惑いをもって記録した、当時の日本社会における裸体や性に対するおおらかで自然な態度について深く考察しています。


裸体に対するおおらかで無垢な態度
外国人たちは、当時の日本人が公衆の面前で裸になることに抵抗がほとんどないことに衝撃を受けました。特に、混浴の習慣、夏の時期に男性が裸同然で働く姿、子どもたちの裸、また銭湯への道すがら平気で裸で歩く人々など、西洋社会の厳格なモラルからは想像もつかない光景が記録されています。これは、彼らが裸体に抱く「恥」や「罪悪」といった意識が、当時の日本人には希薄であったことを示唆します。

「裸」=「自然な身体」としての認識
日本人にとっての裸体は、性的なものや不道徳なものとしてではなく、単に自然な身体の姿として捉えられていました。身体を隠すことよりも、清潔に保つことの方が重要視されており、銭湯などの公衆浴場はそのための不可欠な生活空間でした。

性に対する開かれた態度
裸体に対するおおらかさは、性に対する一般的な態度にも通じていました。性的な事柄がタブー視されすぎず、むしろ生活の一部として、ある種の健全なものとして認識されていたことが示唆されます。浮世絵に描かれる性的な場面や、性的な表現に対する当時の人々の反応なども、その証拠として挙げられます。

西洋の「禁欲主義」との対比
西洋、特にヴィクトリア朝時代のキリスト教的倫理観に基づく厳格な禁欲主義や、身体を隠す文化とは対照的に、日本社会はより開放的で、本能的なものに対する忌避感が少なかったと著者は指摘します。西洋人が性や裸体に感じる罪悪感や羞恥心は、当時の日本人にはほとんど見られませんでした。

近代化による変化と「恥」の導入
明治維新以降の近代化、特に西洋文明の導入は、日本のこの裸体や性に対する態度に大きな変化をもたらしました。西洋のキリスト教的倫理観や公衆衛生の概念が持ち込まれることで、それまで自然であった裸体への意識に「恥」の感情が植え付けられ、混浴の禁止や服装の規範化が進みました。著者は、これにより日本人が本来持っていたおおらかさや、自然な身体感覚が失われていったと考察します。

「性欲」の捉え方
この章では、当時の日本人が性欲を、西洋のように「罪」や「悪」と捉えるのではなく、人間の自然な営みの一部として、より肯定的に受け入れていた側面も描かれています。それは、単なる放縦ではなく、生活のサイクルの中にあるものとして認識されていたと考えられます。

この章は、当時の日本社会が持つ、西洋とは異なる身体観や性文化を浮き彫りにし、近代化がもたらした価値観の変容、そして失われた(あるいは抑圧された)日本人本来の身体感覚について深く問い直す内容となっています。



■ 第9章:「女の位相」

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「女の位相」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本人女性の姿、その社会的役割、そして西洋社会の女性とは異なる独特の「自由」や「強さ」について深く考察しています。


この章で渡辺京二が描くのは、単に家父長制下の従順な女性像ではありません。外国人たちの記録から浮かび上がるのは、生活の様々な場面で能動的に関わり、ある種の自立した精神を持っていた女性たちの姿です。

西洋人の目から見た日本人女性の魅力
多くの外国人旅行者は、日本人女性の「愛らしさ」「優しさ」「控えめな態度」を称賛しています。しかし、その一方で、彼女たちが持つ芯の強さや、生活を支える実質的な能力にも注目していました。西洋の女性とは異なる魅力を感じていたことがうかがえます。

生活を支える労働力と実質的な権限
当時の女性は、家庭内だけでなく、農作業、行商、職人の手伝いなど、様々な経済活動において重要な労働力でした。彼女たちは家計を管理し、子育てや家事を取り仕切るなど、実生活においては大きな権限と影響力を持っていました。形式的な地位が低くても、実質的な生活の運営は女性が担っている場面が多かったことが示唆されます。

性の表現とおおらかさ
「裸体と性」の章とも関連しますが、当時の日本人女性は、西洋的な「慎ましやかさ」とは異なる、よりおおらかで自然な性の表現を持っていたことが指摘されます。浮世絵に描かれる女性像や、性的な事柄に対する鷹揚な態度は、西洋のヴィクトリア朝の道徳観とは大きく異なり、外国人には驚きをもって受け止められました。これは、現代のフェミニズム的な視点とは異なる文脈で、身体や性に対する束縛が少なかった可能性を示唆しています。

身分を超えた人間性
身分制度が存在する中でも、女性たちはそれぞれの立場で生活の喜びを見出し、家族や共同体の中で重要な役割を果たしていました。身分によって形式的な制限はあっても、人間的な営みや感情の豊かさにおいては、そこに大きな隔たりはなかったと読み取れます。

近代化による「女性らしさ」の変容
渡辺京二は、明治以降の近代化、特に西洋的な男女観や「良妻賢母」といった概念が導入されたことで、かつて日本人女性が持っていた自然体のおおらかさや実質的な権能が、形式的な「女性らしさ」や役割の中に閉じ込められていった可能性を指摘します。西洋の近代化が、ある種の「自由」をもたらした一方で、女性たちが持っていた固有の「位相」を失わせたという、逆説的な視点が提示されています。

この章は、近代的な男女平等の視点から過去を断罪するのではなく、当時の社会状況の中で女性たちがどのような形で存在し、どのような意味での「自由」や「強さ」を持っていたのかを、異邦人の冷静な観察を通して再評価しようとする試みです。それによって、現代社会における女性の役割や「らしさ」とは何かを、より多角的に考える視点を与えてくれます。



■ 第10章:「子供の楽園」

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「子供の楽園」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本における子供たちの生き生きとした姿と、彼らが享受していた独特の「楽園」のような環境について考察しています。


外国人が見た子供たちの自由と幸福感
当時の日本を訪れた多くの外国人、例えばモース、バード、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)らは、日本の子供たちが驚くほど陽気で、自由で、幸福そうであったことを記録しています。彼らは、西洋社会の子供たちに見られるような抑圧や厳しさが少なく、のびのびと育っている様子に感銘を受けました。

規律と自由の共存
当時の子供たちは、社会の規範や年長者への敬意といった基本的な礼節は教えられていましたが、現代のような過剰な管理や早期からの受験競争といったものとは無縁でした。彼らは、大人たちの働く姿を間近に見ながら遊び、自然の中で身体を動かし、自ら工夫して遊びを見つける中で、自律性や創造性を育んでいました。これは、厳格な規律がある一方で、子供たちに広い遊びの空間と精神的な自由が与えられていたことを示唆します。

共同体の中での成長
子供たちは、家族だけでなく、近所の人々や地域全体に見守られながら育ちました。親和と礼節の章で述べられたように、人々は互いに親切で、子供たちに対しても温かい眼差しを向けていました。子供たちは、共同体の一員として自然に振る舞い、大人たちの生活や労働に触れることで、社会の仕組みや人間関係を肌で学んでいきました。

遊びが持つ教育的な意味
当時の子供たちの遊びは、単なる暇つぶしではなく、知恵や身体能力、社会性を養う上で重要な意味を持っていました。自然の中で行う遊びや、共同体の中での役割を模倣する遊びなどを通じて、彼らは生活に必要なスキルや知識、そして人との関わり方を自然に身につけていきました。

近代化が奪った「楽園」
渡辺京二は、明治以降の近代化が、こうした子供たちの「楽園」を次第に失わせていったと指摘します。西洋式の教育制度の導入、産業化による生活様式の変化、都市化の進展などが、子供たちが自由に遊び、共同体の中で育つ環境を奪い、彼らを画一化された学校教育や管理された空間へと閉じ込める結果になったと論じます。かつての生命力あふれる子供たちの姿は、現代社会では見られにくくなった「逝きし世の面影」の一つとして描かれています。

この章は、当時の子供たちが享受していた精神的な豊かさと、それが近代化の過程でどのように変容していったのかを浮き彫りにすることで、現代の子供たちの育成環境や教育のあり方について深く問い直す視点を提供しています。



■ 第11章:「風景とコスモス」 

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「風景とコスモス」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目にした、当時の日本の自然観、風景のあり方、そしてそれが人々の精神世界や生活とどのように結びついていたか、つまり日本独自の**コスモス(宇宙・秩序)**を深く考察しています。


人工と自然の融合した美しい風景
外国人たちは、日本の風景が単なる手つかずの自然ではなく、人間が手を加えることでむしろ美しさを増していることに驚きました。棚田、段々畑、手入れされた庭園、曲がりくねった小道など、人々の営みが自然の中に溶け込み、調和した「田園の美」を形成していました。これは、自然を征服の対象と見る西洋の自然観とは対照的で、自然と人間が共生する独特の景観として認識されました。

自然を畏敬し、親しむ精神性
当時の日本人は、自然を畏敬し、同時に親しむという二重の感情を持っていました。山や川、森には神が宿るとされ、自然災害は畏れるべきものとして認識されていました。しかし同時に、人々は桜や紅葉を愛で、月見や雪見を楽しむなど、自然の美しさや恵みを日常生活の中に積極的に取り入れていました。自然は、単なる背景ではなく、生活と精神の源泉であったのです。

自然の中に秩序と意味を見出す「コスモス」
著者は、当時の日本の風景が、単なる視覚的な美しさだけでなく、人々の精神世界や宇宙観を映し出す「コスモス(秩序ある全体)」であったと論じます。自然の循環、四季の移ろい、そこに根ざす人々の暮らしや信仰が一体となり、独自の世界観や価値体系を形成していました。これは、西洋の理性が構築する普遍的な秩序とは異なる、日本固有の有機的で多神教的な世界観の現れでした。

人々の生活に息づく芸術性
庭園、生け花、盆栽といった芸術は、自然を凝縮し、その美を表現するものであり、多くの人々の生活に浸透していました。また、当時の建築物も自然の木材を生かし、周囲の環境と調和するように建てられていました。これらは、自然に対する感性と、それを形にする日本人の高い美意識を示すものでした。

近代化による「風景」の変質と「コスモス」の喪失
渡辺京二は、明治以降の近代化が、こうした自然と人間が織りなす「風景」を破壊し、それによって支えられていた日本独自の「コスモス」が失われていったと指摘します。効率性や合理性を追求する西洋的な開発は、自然を資源と見なし、風景から生命感や精神性を奪っていきました。かつて一体であった生活と自然が分離され、人々はかつての豊かな景観と、それに裏打ちされた精神的基盤を失うことになったと論じられています。

この章は、単なる過去の風景描写に留まらず、近代化がもたらした自然観の変容、そしてそれが日本人の精神や文化に与えた深い影響について考察しています。かつて日本人が自然の中に見ていた秩序と意味、そしてそれが現代において失われたことへの警鐘が込められています



■ 第12章:「生類とコスモス」

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「生類とコスモス」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本社会における動物(生類)と人間との関係性、そしてそれが織りなす独特の**コスモス(宇宙観・世界秩序)**について深く考察しています。この章は、前章「風景とコスモス」で扱われた自然観をさらに踏み込み、生命全体への日本人の視線を浮き彫りにします。


動物への慈愛と共存
外国人たちは、当時の日本人が動物に対して極めて慈悲深く、共存を重んじる態度を取っていたことに驚いています。例えば、犬や猫が自由に町を歩き、人々がこれらを追い払うどころか、餌を与え、大切に扱っている様子が多くの記録に残されています。これは、西洋で動物が主に労働力や食料、あるいは害獣として扱われる傾向にあったことと対照的でした。特に、日本では殺生を避ける仏教的観念が根付いており、それが動物に対する態度にも反映されていました。

生き物全体への敬意
この章でいう「生類」とは、動物だけでなく、昆虫、魚、鳥類、さらには植物を含むあらゆる生命体を指します。日本人には、これら全ての生き物が固有の生命を持ち、それぞれの場所で生きているという認識がありました。セミの鳴き声を聞き、ホタルを愛で、金魚を飼育するなど、自然の小さな生き物たちにも美しさや命の輝きを見出し、彼らと共に暮らすことを喜びとする感性がありました。

食肉文化の希薄さと独自の食習慣
当時の日本では、一般的に肉食がほとんど行われていませんでした。これもまた仏教的背景が強く影響しており、殺生を忌避する思想から、動物を食べる習慣が西洋に比べて格段に少なかったのです。外国人は、日本人が穀物、野菜、魚介類を中心に、非常に質素ながらもバランスの取れた食事をしていたことに注目しています。これは、西洋の「食うか食われるか」といった食物連鎖の観念とは異なる、生き物との関係性を示しています。

人間中心主義ではない「コスモス」
当時の日本人の世界観は、西洋のような人間が自然や動物を支配するという人間中心主義とは一線を画していました。むしろ、人間もまた自然の一部であり、他の生き物たちと共にこの世界を構成する存在であるという**「生命の環」**の中に自らを位置づけていました。この共生的な関係性が、日本独自の「コスモス」を形成していたのです。

近代化による「生類観」の変容
渡辺京二は、明治以降の近代化、特に西洋文明の導入が、この伝統的な「生類観」を大きく変質させていったと指摘します。西洋から肉食文化や科学的な動物観、効率を重視する畜産技術などが持ち込まれることで、それまで自然であった動物への慈愛や、生類全体への敬意が薄れていきました。動物は「資源」や「家畜」として、より経済的・合理的な視点から捉えられるようになり、かつての有機的な共生の「コスモス」が崩れていったと論じられています。

この章は、単に過去の動物との関わりを描くだけでなく、近代化がもたらした価値観の変容、そして人間が自然や他の生命体との関係性をどのように捉え直すべきかという、現代にも通じる深い問いを投げかけています。



■ 第13章:「信仰と祭」 

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「信仰と祭」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本社会における信仰のあり方、多様な祭り、そしてそれが人々の生活と精神にいかに深く結びついていたかについて考察しています。この章は、西洋の一神教的な信仰とは異なる、日本固有の多神教的・アニミズム的な世界観を浮き彫りにします。


多様な神々と遍在する信仰
外国人たちは、日本にキリスト教のような単一の絶対神が存在せず、**無数の神々(八百万の神々)**が自然界のあらゆる場所に宿ると信じられていることに驚きました。山や川、森、岩、古木、さらには生活道具に至るまで、いたるところに神性を見出すアニミズム的な信仰は、西洋の合理主義的な視点からは理解しがたいものでした。しかし、それは日本人にとって極めて自然な世界観であり、生活の根底に深く根差していました。

厳格さよりおおらかさを伴う信仰形態
日本の信仰は、西洋のような教義の厳格さや、罪の意識を伴うものではなく、よりおおらかで実践的なものでした。人々は、神仏に日々の感謝を捧げ、豊作や無病息災を祈り、困りごとがあれば神仏にすがる、という形で信仰を生活に取り入れていました。信仰は、日々の暮らしに安らぎや活力を与えるものであり、決して人々を抑圧するものではありませんでした。

生活と一体化した「祭」の役割
「祭」は、当時の日本人にとって単なる娯楽ではなく、信仰そのものであり、生活のサイクルと深く結びついた重要な行事でした。四季折々の祭りは、五穀豊穣を祈り、悪疫退散を願うなど、共同体の安寧と繁栄を願う場でした。祭りの間、人々は日々の労働から解放され、共に喜びを分かち合い、連帯感を強めました。外国人たちは、祭りの熱気と人々の純粋な歓喜に驚きと感動を覚えています。

宗教的寛容性
日本では、神道と仏教が共存し、相互に影響を与え合いながら独自の信仰形態を築いていました。人々は特定の宗派に固執することなく、必要に応じて神と仏の両方に手を合わせるという寛容な宗教観を持っていました。これは、西洋の歴史における宗教間の対立とは全く異なる様相を呈していました。

近代化による「信仰と祭」の変容
渡辺京二は、明治以降の近代化、特に国家神道の制定や、西洋的な合理主義の導入が、この伝統的な「信仰と祭」のあり方を大きく変容させていったと指摘します。祭りは、本来の共同体的・宗教的意味合いから、形式的な国家行事や観光要素の強いものへと変化していきました。また、科学技術の発展や西洋的な価値観の普及により、自然の中に神を見出す感性や、日々の生活に根差した信仰心が薄れていったと論じられています。かつて日本人を支えていた、生きた信仰と共同体の絆が失われたことへの警鐘が込められています。

この章は、近代化以前の日本人が持っていた、自然や万物への畏敬の念、そしてそれが祭りという形で表現され、共同体の絆を深めていた豊かな精神世界を浮き彫りにします。それは、現代社会が失いつつある、人間と自然、そして共同体の本質的なつながりを再考させる視点を提供しています。



■ 第14章:「心の垣根」 

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』における「心の垣根」の章は、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人たちが目撃した、当時の日本社会における人々の間に存在した独特な「隔たり」や「境界」のあり方、そしてそれが西洋社会のそれとは異なる精神構造や行動様式にどう繋がっていたかを考察しています。この章は、これまでの章で描かれた「陽気さ」や「親和性」と矛盾するように見えて、実はその根底にあった日本独自の社会のあり方を提示します。


公私の区別とおおらかさ
外国人たちは、当時の日本人が公衆の面前で非常にオープンでありながらも、個人のプライベートな空間や感情にはあまり踏み込まない絶妙な距離感を持っていることに気づきました。家屋は壁が薄く、隣近所の生活音が聞こえるような状態であっても、人々はそれをお互いの生活の一部として自然に受け入れていました。これは、西洋的な「プライバシー」の概念とは異なる、おおらかな公私の区別が存在していたことを示唆します。

感情表現と抑制
日本人は、一見すると感情を表に出さないように見えましたが、これは感情の欠如ではなく、状況や相手への配慮からくる抑制でした。外国人たちは、祭りでの爆発的な熱狂や、悲しみの場面での深い共感など、感情豊かな側面も見ています。しかし、日常的には、集団の和を乱さないための自制心が強く働いていました。

「よそ者」への開かれと境界線
「親和と礼節」の章で述べられたように、当時の日本人は見知らぬ外国人に対しても非常に友好的で親切でした。これは、日本人の中に「よそ者」を排斥する意識が希薄であったことを示します。しかし、これは無条件の受け入れではなく、ある一定の**「心の垣根」**、つまり相手の領域を侵さないという暗黙の了解があった上で成り立っていました。土足で家に上がらない、他人の私物に勝手に触れないといった行動は、物理的な垣根だけでなく、心の中の境界線を示していました。

個人と集団のバランス
当時の日本社会は共同体的でありながらも、個人が完全に集団に埋没していたわけではありません。人々は、集団の中での自分の役割を認識しつつも、精神的な自由を保持していました。この「心の垣根」は、個々人がそれぞれの内面世界を持ち、他者とは異なる存在であることを認め合う、健全な個人と集団の関係性の表れでもありました。

近代化による「垣根」の変容
渡辺京二は、明治以降の近代化が、こうした日本独自の「心の垣根」を大きく変容させていったと指摘します。西洋的な個人主義やプライバシーの概念が導入されることで、公私の区別はより明確になり、人々の感情表現や人間関係の距離感も変化していきました。また、効率性や合理性を追求する近代社会においては、かつての共同体の中で培われた、言葉には表れない「心の垣根」を通じた相互理解が失われ、より直接的で明示的なコミュニケーションが求められるようになったと論じられています。

この章は、近代化以前の日本人が持っていた、独特な人間関係のあり方や、個人の内面と社会との接点について考察しています。それは、現代社会における人間関係の希薄さや、プライバシーの過剰な意識、あるいは言葉足らずなコミュニケーションの問題を考える上で、示唆に富む視点を提供しています。



■「あとがき」 

渡辺京二の著書『逝きし世の面影』の「あとがき」は、本書の執筆意図、テーマの根幹、そして著者がこの作品を通して読者に何を伝えたかったのかが凝縮された部分です。これまでの各章で詳細に描かれてきた「逝きし世」への著者の思いが、ここで改めて表明されています。


執筆の動機と「文明の死」という認識
著者は、「あとがき」の中で、本書を執筆した最大の動機が、近代化以前の日本に存在した独自の「文明」が、単に変容したのではなく、死滅してしまったという強い認識にあることを明かしています。これは、西洋近代を絶対的な進歩として捉える歴史観への異議申し立てであり、失われた価値への深い哀惜の念が根底にあります。外国人の記録を通して、その失われた文明の輪郭を「幻影」のように蘇らせようとする試みであったと説明されます。

西洋近代への対抗軸としての「逝きし世」
渡辺京二は、本書が単なる懐古趣味ではないことを強調します。むしろ、西洋近代がもたらした価値観や社会のあり方が、本当に人類にとって普遍的で最善のものなのかという問いを投げかけるために、その対抗軸として「逝きし世」の日本を描いたと述べています。かつての日本社会が持っていた、自然との共生、共同体の調和、簡素な中での精神的豊かさといった要素は、現代社会が抱える問題への示唆を与えうると考えているのです。

「野蛮」とされたものの中にあった豊かさ
西洋の進んだ文明の視点から見れば「未開」あるいは「野蛮」とされがちであった当時の日本の暮らしの中にこそ、近代社会が見失ってしまった人間らしい豊かさや幸福の質があったことを著者は訴えかけます。それは、効率性や物質的発展では測れない、人々の精神性、身体性、そして他者や自然との関係性のあり方でした。

史料としての外国人記録の重要性
「あとがき」では、本書の根拠となった幕末から明治初期にかけて来日した外国人たちの記録の重要性が改めて強調されます。彼らは、日本の文化や社会を比較する視点を持っていたため、日本人自身が当たり前すぎて意識しなかった、しかし極めてユニークな特徴を客観的に捉えることができました。これらの記録こそが、「逝きし世の面影」を現代に伝える貴重な証拠となったことが述べられています。

現代社会への問いかけ
最終的に著者は、本書が過去を懐かしむだけでなく、現代社会が何を失い、これからどこへ向かうべきなのかを深く考えるための示唆となることを願っています。物質的な豊かさと引き換えに失われた精神的な豊かさ、環境問題、人間関係の希薄化など、現代社会が直面する課題に対する、過去からのメッセージとして本書を位置づけています。

「あとがき」は、『逝きし世の面影』が単なる歴史書ではなく、現代社会への強い批判と問いかけを内包した、哲学的な作品であることを明確に示しています。それは、失われた過去の文明から、未来への示唆を得ようとする著者の真摯な姿勢が表れた結びの言葉と言えるでしょう。



思想史家・歴史家・評論家 渡辺京二氏

渡辺 京二(わたなべ きょうじ、1930年8月1日 - 2022年12月25日)は、熊本市在住の日本の思想史家・歴史家・評論家。代表作に幕末・明治期の異邦人の訪日記を網羅した『逝きし世の面影』などがある。日活映画の活動弁士であった父・次郎と母・かね子の子として京都府紀伊郡深草町(現:京都市伏見区深草)に生まれる。1938年(昭和13年)、当時かの地で映画館の支配人をしていた父を追って中国・北京に移住、その二年後に大連に移り、南山麓小学校から大連第一中学校へ進む。1947年(昭和22年)、大連から日本へ引揚げ、戦災で母の実家が身を寄せていた菩提寺の六畳間に寄寓する。旧制熊本中学校に通い、1948年(昭和23年)、日本共産党に入党する。同年第五高等学校に入学するが、翌1949年(昭和24年)結核を発症、国立結核療養所に入所し、1953年(昭和28年)までの約四年半をそこで過ごした。1956年(昭和31年)、ハンガリー事件により共産主義運動に絶望、離党する。法政大学社会学部卒業。書評紙日本読書新聞編集者、河合塾福岡校講師を経て、河合文化教育研究所主任研究員。2010年には熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授。2022年12月25日死去。92歳没。








2025年7月17日木曜日

インドの人生観・中国の人生観

 

インドの人生観・中国の人生観 Gemini要約


現在私の年齢は、林住期(りんじゅうき)を過ぎて、

いよいよ林住期(りんじゅうき)に入る時が近づいているので、

ここで、改めて、インドの人生観・中国の人生観を、見直すことにしました。


以前に読んだ、五木寛之氏の「百歳人生を生きるヒント」で大まかなことは理解しているつもりですが、今回改めて、「インドの人生観・中国の人生観」を、AiのGeminiで要約してみました。

なかなか、面白かったです。

再度、これからの人生の指針にしたいと思っています。



■インドの人生観


インドの人生観


■インドの人生観 Gemini要約

インドの人生観は、非常に多角的で奥深いものですが、いくつかの主要な概念が共通して見られます。


1. 四つの人生の目的(プルシャールタ)

古代インドの聖者たちは、人生には以下の四つの目的があると考えていました。


ダルマ(Dharma) 

宇宙の法則、道徳、倫理、義務などを意味します。個人は、自分自身の役割や社会的な立場に応じた正しい行いをすることが求められます。これは、自然の摂理に従い、調和を保つ生き方を指します。


アルタ(Artha)

物質的な富、繁栄、成功を意味します。インドの思想では貧困を推奨せず、正しい手段によって富を築くことは望ましいとされています。ただし、ダルマに沿った方法で得られることが重要です。


カーマ(Kama)

欲望、快楽、愛情などを意味します。肉体的、精神的な満足を追求することも人生の一部として肯定されます。これもまた、ダルマの範囲内で行われるべきとされます。


モクシャ(Moksha)

輪廻からの解脱、精神的な解放、自由を意味します。これは、物質的な束縛や苦しみから解放され、真の自己(アートマン)と宇宙の根本原理(ブラフマン)が一体であることを悟るという、究極の目標です。


これらの目的は、それぞれ独立しているのではなく、相互に関連し合い、最終的にはモクシャへと繋がる道として捉えられています。



2. 四住期(アシュラマ)

人生を四つの段階に分け、それぞれの段階で異なる役割や生き方が理想とされていました。


学生期(ブラフマチャリヤ) 

学生として学び、知識や規律を身につける時期。


家住期(グリハスタ)

家庭を持ち、社会的な役割を果たし、富を築く時期。


林住期(ヴァーナプラスタ) 

子どもが独立し、社会的な責任から離れて精神的な探求を始める時期。


遊行期(サンニャーサ)

全ての物質的な執着を捨て、放浪しながら解脱を目指す時期。


これはあくまで理想的なモデルであり、現代のインド社会でそのまま実践されているわけではありませんが、人生の各段階における心のあり方や目的の指針として考えられています。




3. 輪廻転生とカルマの思想

インドの人生観の根底には、輪廻転生(Samsara)とカルマ(Karma)の思想があります。


輪廻転生

魂は死後も生まれ変わりを繰り返すという考え方です。


カルマ

人間の行為とその結果は、善悪を問わず、必ず自分に返ってくるという因果応報の法則です。良い行いをすれば良い結果が、悪い行いをすれば悪い結果がもたらされると考えられ、これは来世にも影響するとされます。


この思想は、個人の行動に倫理的な責任を持たせ、現世の生き方が未来を決定するという考え方を育んでいます。苦しみは利己的な欲望から生まれるという認識があり、苦からの解放は自己の真の本質に帰ること(「サット・チット・アーナンダ」:純粋な存在、純粋な知、純粋な喜び)であるとされます。



4. 平等ではないという考え方と多様性

現代の民主主義思想では「すべての人は平等に創造されている」とされますが、インドの伝統的な思想では、人間は平等に生まれてくるわけではないという見方もあります。これはカースト制度とも関連しますが、現代ではその解釈や受け止め方も多様化しています。

また、インドは非常に多様な文化、宗教、哲学が共存する国であり、個々の人々の人生観も多岐にわたります。しかし、上記のような基本的な概念は、多くのインド人の精神的な基盤に深く根付いています。



5. 結果への執着を手放す

「バガヴァッド・ギーター」などの聖典には、「執着を捨て、成功と失敗を平等のものと見て、ヨガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨガは平等の境地であると言われる」という教えがあります。これは、結果に過度に執着することなく、目の前の行為に専念することの重要性を示しています。インドでは、自分の力ではどうにもならないことが多いという現実から、予定通りにいかなくても臨機応変に対応する能力が高い人が多いとも言われます。

これらの要素が複合的に絡み合い、インドの豊かな人生観を形成しています。





■中国の人生観


中国の人生観



■中国の人生観 Gemini要約


■中国の四住期
インドの人生観に見られる「四住期(アシュラマ)」のような明確な形で、人生を特定の段階に区切り、それぞれの時期に特定の役割や生き方を割り当てる体系は、中国の伝統思想には直接的に存在しません。
しかし、中国の主要な思想である儒教、道教、仏教のそれぞれの観点から、人生の段階や理想的な生き方について考えることはできます。


■儒教における人生の段階(非公式な区分)
儒教は、社会における個人の役割と倫理を重視するため、人生を以下のような成長段階として捉えることがあります。これは、厳密な「期」として定められているわけではありませんが、孔子の言葉にその思想が見て取れます。

15歳にして学に志す(志学) 
学問に専念し、基本的な知識や教養を身につける時期。

30歳にして立つ(而立)
経済的にも精神的にも自立し、自分の立場を確立する時期。

40歳にして惑わず(不惑)
迷いがなくなり、信念を持って物事に取り組めるようになる時期。

50歳にして天命を知る(知天命)
自分の人生の使命や役割を理解し、運命を受け入れる時期。

60歳にして耳順う(耳順) 
人の意見を素直に聞くことができ、何を聞いても動じなくなる時期。

70歳にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず(従心)
自分の思うままに行動しても、道理に外れることがなくなる時期。

これは孔子の個人的な体験を語ったものではありますが、儒教的な理想の人間像が、年齢を重ねるごとにどのように成長し、完成していくかを示唆していると解釈できます。社会に貢献し、倫理的な模範となることを目指す人生観が根底にあります。




■ 陰陽五行説における四季と人生の段階の対応

■ 春: 青春(せいしゅん) - 青(木)- 人生の芽吹き、成長期
■ 夏: 朱夏(しゅか) - 朱(火)- 人生の盛り、活動期
■ 秋: 白秋(はくしゅう) - 白(金)- 人生の実り、円熟期
■ 冬: 玄冬(げんとう) - 玄(黒)- 人生の終盤、内省期、あるいは幼少期


■陰陽五行説の「青春」

陰陽五行説における「青春」とは、単に「若い時代」という意味合いだけでなく、古代中国の思想に基づいた深い意味合いを持っています。
陰陽五行説では、宇宙のあらゆるものが「木・火・土・金・水」の5つの要素(五行)に分類され、それぞれが季節、色、方角、臓器など様々なものと対応すると考えられています。

この五行説において、
春 は 「木(もく)」 に対応します。木は芽吹き、成長し、生命力が満ち溢れる季節を表します。
木 に対応する色は 「青(せい)」 です。新緑の季節を思わせる、鮮やかな青や緑色が当てられます。
このように、**「春」という季節と、その季節を象徴する「青」という色が結びつき、「青春」**という言葉が生まれました。

したがって、陰陽五行説における「青春」は、以下のような意味合いを含んでいます。

生命力の旺盛な時期
木が力強く成長するように、人生において最も活気に満ち、発展していく時期を指します。

始まりと希望
春が新しい生命の始まりであるように、未来への希望に満ちた、可能性を秘めた時期を表します。

未熟さと成長
芽吹いたばかりの木がまだ未熟であるように、経験が少なく、これから成長していく段階も示唆します。
また、陰陽五行説では、「青春」以外の季節にもそれぞれ色と名称が割り当てられています。

春: 青春(せいしゅん) - 青(木)
夏: 朱夏(しゅか) - 朱(火)
秋: 白秋(はくしゅう) - 白(金)
冬: 玄冬(げんとう) - 玄(黒)

これらの言葉は、それぞれの季節や、それに当てはまる人生の段階を表す言葉として使われます。「青春」が人生の若々しい成長期を指すように、「朱夏」は壮年期の活動的な時期、「白秋」は老年期の円熟した時期、「玄冬」は晩年期を表すことがあります。
このように、陰陽五行説における「青春」は、単なる若さの象徴に留まらず、自然の摂理と人生のサイクルを重ね合わせた、奥深い意味を持つ言葉なのです。



■陰陽五行説の「朱夏」

陰陽五行説における「朱夏(しゅか)」も、「青春」と同様に、古代中国の五行思想に基づいた季節と人生の段階を表す言葉です。

陰陽五行説では、宇宙のあらゆるものが「木・火・土・金・水」の5つの要素(五行)に分類され、それぞれが季節、色、方角、臓器などと対応します。

この五行説において、

夏 は 「火(か)」 に対応します。火は燃え盛る炎のように、情熱、活動、成長の極みを表す季節です。
火 に対応する色は 「朱(しゅ)」、すなわち赤色です。燃える太陽や炎の色が当てはまります。
このように、**「夏」という季節と、その季節を象徴する「朱」という色が結びつき、「朱夏」**という言葉が生まれました。

したがって、陰陽五行説における「朱夏」は、以下のような意味合いを含んでいます。

最も活動的な時期
太陽が最も高く輝き、生命が最も活発に活動する夏のように、人生において最も精力的に活動し、能力を最大限に発揮する時期を指します。

情熱と成熟
燃え盛る炎のように、情熱に満ち、目標に向かって邁進する時期。また、「青春」で培ったものが成熟し、実を結び始める段階でもあります。

社会的役割の遂行
多くの場合、仕事や家庭において中心的な役割を担い、責任を果たす壮年期にあたると考えられます。
「青春」が若々しい成長期を指すのに対し、「朱夏」は、その成長を経て社会の中心で活躍する、人生の「盛り」の時期を意味します。具体的な年齢で区切ることはできませんが、一般的には30代から50代、あるいは60代前半までの壮年期が「朱夏」にあたると解釈されることが多いです。

四季と五行の色、そして人生の段階の対応は以下のようになります。

春: 青春(せいしゅん) - 青(木)- 人生の芽吹き、成長期
夏: 朱夏(しゅか) - 朱(火)- 人生の盛り、活動期
秋: 白秋(はくしゅう) - 白(金)- 人生の実り、円熟期
冬: 玄冬(げんとう) - 玄(黒)- 人生の終盤、内省期(※時に、人生の始まりを玄冬とする考え方もあります)

「朱夏」は、人生において最も充実し、エネルギーに満ちた時期を象徴する言葉として、現在でもその含意が使われています。



■陰陽五行説の「白秋」

陰陽五行説における「白秋(はくしゅう)」は、「青春」「朱夏」と同様に、季節と色、そして人生の段階を関連付けた言葉です。

陰陽五行説では、万物は「木・火・土・金・水」の五つの要素(五行)に分類され、それぞれが季節、色、方角、臓器など様々なものと対応すると考えられています。

この五行説において、
秋 は 「金(きん)」 に対応します。金は、実りの季節、収穫、そして物事が成熟し、整理されていく段階を表します。金属のように硬く、鋭い性質も持ち合わせています。
金 に対応する色は 「白(はく)」 です。これは、収穫後の稲穂の白さ、あるいは金属の光沢、さらには白髪など、熟成や老成を表す色とされます。

このように、**「秋」という季節と、その季節を象徴する「白」という色が結びつき、「白秋」**という言葉が生まれました。

したがって、陰陽五行説における「白秋」は、以下のような意味合いを含んでいます。

円熟と実りの時期
人生において、経験を積み重ね、知識や知恵が豊富になった時期を指します。「朱夏」で培ったものが実を結び、成果が現れる段階でもあります。

内省と整理の時期
収穫を終え、冬に向けて準備を始める秋のように、これまでの人生を振り返り、整理し、内面を深める時期でもあります。

穏やかさと安定
激しい活動期を過ぎ、精神的に落ち着き、安定した状態を表します。白髪が増えるなど、身体的な変化も現れることが多い時期です。

責任からの解放
社会的な役割の中心から徐々に退き、個人的な時間を楽しむ時期でもあります。

「青春」が人生の始まりと成長、「朱夏」が人生の絶頂期と活動を指すのに対し、「白秋」は、その後の成熟し、円熟した時期、すなわち老年期を表すことが多いです。詩人・北原白秋の雅号も、この「白秋」にちなんで付けられたとされています。彼が16歳の時にこの号を使い始めたのは、当時としては非常に老成した感性を持っていたことを示唆するとも言われます。

陰陽五行説における四季と人生の段階の対応は以下のようになります。

春: 青春(せいしゅん) - 青(木)- 人生の芽吹き、成長期
夏: 朱夏(しゅか) - 朱(火)- 人生の盛り、活動期
秋: 白秋(はくしゅう) - 白(金)- 人生の実り、円熟期
冬: 玄冬(げんとう) - 玄(黒)- 人生の終盤、内省期

このように、「白秋」は単なる年齢を表すだけでなく、人生の豊かさ、深み、そして知恵が凝縮された時期を象徴する言葉として用いられています。



■陰陽五行説の「玄冬」

陰陽五行説における「玄冬(げんとう)」も、「青春」「朱夏」「白秋」と同様に、季節と色、そして人生の段階を関連付けた言葉です。

陰陽五行説では、宇宙のあらゆるものが「木・火・土・金・水」の5つの要素(五行)に分類され、それぞれが季節、色、方角、臓器などと対応します。

この五行説において、
冬 は 「水(すい)」 に対応します。水は、万物が活動を休止し、内へ内へと凝縮していく時期、そして再生への準備期間を表します。深く静かで、生命の源となる性質を持ちます。
水 に対応する色は 「玄(げん)」、すなわち黒色です。これは、夜の闇、深淵、あるいは生命の始まりの色とされます。深みがあり、ほとんど光を通さないような色合いです。
このように、**「冬」という季節と、その季節を象徴する「玄」という色が結びつき、「玄冬」**という言葉が生まれました。

したがって、陰陽五行説における「玄冬」は、以下のような意味合いを含んでいます。

休息と再生の時期
自然界が活動を停止し、生命が次の春に向けてエネルギーを蓄える冬のように、人生において内省し、力を蓄え、新たな始まりに備える時期を指します。

生命の始まりと終わり
一説には、人生の始まりである幼少期や、人生の終盤である晩年期を表すとされます。特に晩年期においては、これまでの人生を静かに振り返り、精神的な深みを増す時期とも解釈されます。

深遠と静寂
黒が持つ深さや静けさのように、外に向かって活動するのではなく、内面に向き合い、精神性を高める時期でもあります。

「青春」が人生の始まりと成長、「朱夏」が人生の絶頂期と活動、「白秋」が人生の円熟期と実りを指すのに対し、「玄冬」は、より深い内省や、次のサイクルへの準備期間、あるいは人生の終焉に近い時期を示すことが多いです。ただし、一部では幼少期を指す場合もあり、それは季節が巡るように人生も繰り返されるという思想に基づいています。

陰陽五行説における四季と人生の段階の対応は以下のようになります。

春: 青春(せいしゅん) - 青(木)- 人生の芽吹き、成長期
夏: 朱夏(しゅか) - 朱(火)- 人生の盛り、活動期
秋: 白秋(はくしゅう) - 白(金)- 人生の実り、円熟期
冬: 玄冬(げんとう) - 玄(黒)- 人生の終盤、内省期、あるいは幼少期
このように、「玄冬」は単に冬の季節を表すだけでなく、人生の深淵、静寂、そして次の段階への準備期間を象徴する、奥深い意味を持つ言葉なのです。








2025年7月15日火曜日

日本国歌・君が代(きみがよ)

 

日本国歌・君が代(きみがよ)


アメリカ国歌The Star-Spangled Bannerを調べるついでに、興味があったので、日本国歌・君が代も調べてみました。


アメリカ合衆国の国歌として正式に採用されたのは、1931年、歌詞の題材は1814年の米英戦争。


日本の国歌として正式に採用されたのは、1880年(明治13年)、歌詞の題材は10世紀初頭に編纂された古今和歌集に収録された詠み人知らずの和歌。世界の国歌の中で最も古い歌詞とされます。


1893年(明治26年)に文部省文部大臣井上毅によって告示されました。そのテーマは皇統の永続性とされ、「君」を天皇と解釈したもののようです。原文は親しい人という意味らしい。


日本の国歌の背景にも、明治の歴的状況が反映されているということですね。


個人としては、原文の男性と女性の親しいひとでいいように思いますが、10世紀初頭の詠み人知らずの和歌を国家にするというのも、日本の歴史の奥深いところですね。


そろそろ、アメリカの属国から脱して欲しいところです。




古今和歌集に収録された詠み人知らずの和歌 




『君が代』(きみがよ)


君が代は
男性と女性が共に支えているこの世は


千代に八千代に 
千年も幾年もの間 (日本の長い歴史を受け継ぎながら)

さゞれ石の
小さな砂がさざれ石のように (一人ひとりが個性を大事に)

巌となりて
やがて大きな盤石となって (協力しあって)

苔の生すまで
苔が生じるほど長い間栄えていきますように (この国が末永く繁栄していきますように)





10世紀初頭に編纂された古今和歌集 




『君が代』(きみがよ)は、日本の国歌。『ウィキペディア(Wikipedia)』より


君が代の歌詞は10世紀初頭に編纂された古今和歌集に収録された詠み人知らずの和歌に由来します。

古今和歌集は10世紀初頭に編纂されており、世界の国歌の中で最も古い歌詞とされます。

1880年(明治13年)に西洋音楽に基づく曲が与えられ、事実上の国歌とされました。

その後、君が代を正式に日本の国歌とする法律は無かったが、1999年(平成11年)の「国旗及び国歌に関する法律」により日本の国歌とされました。


国歌としては、1869年(明治2年)、軍楽隊教官だったイギリス人ジョン・ウィリアム・フェントンが日本に国歌がないのを残念に思い、練習生を介して作曲を申し出たことを始まりとしています。

1880年(明治13年)、法律では定められなかったが、事実上の国歌として礼式曲「君が代」が採用されました。

1893年(明治26年)に文部省文部大臣井上毅によって告示された。そのテーマは皇統の永続性とされました。



■ 歌詞の解釈については、様々な議論があります。

「君」を天皇と解釈する立場と、親しい人を指すとする立場があります。

国歌としての「君が代」は、天皇を日本国の象徴、日本国民統合の象徴と位置づける日本国憲法を踏まえ、国の平和と繁栄を願うものと解釈されています。




■1985年(昭和60年)2月26日の閣議で松永光文部大臣は文部省の調査で「君が代」には3番まで歌詞があると報告している。それによれば、


君が代

君が代は 千代に八千代に さゞれ石の
巌となりて 苔の生すまで


君が代は 千尋の底の さゞれ石の
鵜のゐる磯と あらはるるまで


君が代は 限りもあらじ 長浜の
真砂の数は よみつくすとも
である。このうち二番は源頼政のよんだ歌、三番は光孝天皇の大嘗祭に奉られた歌である。




日本国 国旗









2025年7月12日土曜日

The Star-Spangled Banner (星条旗)

 

The Star-Spangled Banner (星条旗)


先日の7月4日がアメリカ独立記念日で、アメリカ国歌のThe Star-Spangled Bannerが、

ネット上でも盛んに流れていました。

少し興味があり、アメリカ国歌The Star-Spangled Bannerを調べてみました。


この国歌は、1814年の米英戦争、マクヘンリー砦の戦いでのアメリカの勝利を記念して書かれましたものだと、初めて知りました。


1776年7月4日がアメリカの独立記念日ですが、独立宣言後も、アメリカはイギリスとの独立戦争を戦い、1783年に正式に独立を達成しています。

その国歌が1814年の米英戦争、「ボルティモアの戦い」が題材と言うことが、いかにもアメリカらしいですね。


アメリカ合衆国の国歌として正式に採用されたのは、1931年3月3日だそうですが、

そのころすでに、アメリカが世界のトップとして君臨していたということですね。

しかし今、世界に君臨したアメリカも、国内の分裂の危機で、翳りが見えてきています。

歴史は非常に興味深いですね。



マクヘンリー砦 国旗


The Star-Spangled Banner


「The Star-Spangled Banner」は、アメリカ合衆国の国歌の英語タイトルで、日本語では「星条旗」と訳されます。直訳すると「星の輝く旗」という意味です。1814年に弁護士のフランシス・スコット・キーによって書かれた詩が基になっており、米英戦争中のマクヘンリー砦の戦いを題材にしています。


詳細:

タイトル:The Star-Spangled Banner (星条旗).

意味:「星の輝く旗」という直訳の通り、アメリカの国旗を指します。

作詞: 35歳の詩人・弁護士のフランシス・スコット・キー.

作曲: イギリスの作曲家ジョン・スタッフォード・スミス (歌詞は彼の曲にのせて歌われる).

背景:1814年の米英戦争、マクヘンリー砦の戦いでのアメリカの勝利を記念して書かれました。

国歌としての採用: ハーバート・フーヴァー大統領時の1931年にアメリカ合衆国の国歌として正式に採用されました。

つまり、「The Star-Spangled Banner」は、アメリカの国歌であり、アメリカの国旗を指す言葉であり、アメリカの歴史と密接に結びついた象詞であると言えます。



1番

言って、見えますか  

Oh(O) say can you see, 


夜明けの早い光の中で  

by the dawn's early light,


私たちが誇らしげに称賛したこと

What so proudly we hailed 


黄昏の最後の輝きで?

at the twilight's last gleaming,


その幅広の縞模様と明るい星は

Whose broad stripes and bright stars 


危険な戦いを乗り越えて

through the perilous fight,


城壁の向こうで僕らは眺めた

O'er the ramparts we watched, 


とても勇敢に、そう、ストリーミングしていましたか?

were so gallantly streaming.


そしてロケットの赤い輝き

And the rocket's red glare,


空中で爆発する爆弾

the bombs bursting in air,


一晩中証拠を提出した

Gave proof through the night


私たちの旗がまだそこにあったことを

that our flag was still there;


ああ、あの星条旗はまだ揺れているだろうか

Oh (O)say does that star-spangled banner yet wave


自由の国、そして勇敢な者の故郷

O'er the land of the free and the home of the brave?



米英戦争(1812年)とアメリカ国旗


■ 歌詞

『星条旗』の歌詞には多少の揺れがあるが、何が正式なものかは定められていない。

歌詞は4番まであるが、1番以外が歌われることは少ない。

アメリカ本国出身者でも2番の歌詞までしか知らない場合が多い。

とくに3番は内容が強く反英的であることから通常は歌われない。

3番は南北戦争の頃の価値観ですら問題視されていた。

歌詞にいう「rocket」を日本語訳では「狼煙」「砲火」「砲弾」等と翻訳されるが、これはフォートマクヘンリーへの砲撃で発射されたコングリーヴ・ロケットのことである。



原文

1番

Oh(O) say can you see, by the dawn's early light,

What so proudly we hailed at the twilight's last gleaming,

Whose broad stripes and bright stars through the perilous fight,

O'er the ramparts we watched, were so gallantly streaming.

And the rocket's red glare, the bombs bursting in air,

Gave proof through the night that our flag was still there;

Oh (O)say does that star-spangled banner yet wave

O'er the land of the free and the home of the brave?


2番

On the shore dimly seen through the mists of the deep,

⁠Where the foe's haughty host in dread silence reposes,

What is that which the breeze, o'er the towering steep,

⁠As it fitfully blows, half conceals, half discloses?

Now it catches the gleam of the morning's first beam,

In full glory reflected now shines on the stream,

'Tis the star-spangled banner, O! long may it wave

O'er the land of the free and the home of the brave.


3番

And where is that band who so vauntingly swore

That the havoc of war and the battle's confusion,

A home and a country should leave us no more?

Their blood has washed out their foul footsteps' pollution.

No refuge could save the hireling and slave,

From the terror of flight, or the gloom of the grave,

And the star-spangled banner in triumph doth wave,

O'er the land of the free and the home of the brave.


4番

Oh(O)! thus be it ever, when freemen shall stand,

Between their lov'd home and the war's desolation,

Blest with vict'ry and peace, may the Heav'n rescued land,

Praise the Power that hath made and preserv'd us a nation!

Then conquer we must, when our cause it is just,

And this be our motto—"In God is our Trust;"

⁠And the star-spangled Banner in triumph shall wave,

O'er the land of the free and the home of the brave.



■ 原文の日本語訳 

1番

おお、君は見えるだろうか。夜明けの薄明りの中

黄昏の僅かな光の下に掲げられた我々の歓喜を浴びる誇り高きものが

その太い縞模様と輝く星々は危険に満ちた戦いを潜りぬけ

城壁の上で勇ましく翻っているあの旗を

ロケットの赤い光が、空中で破裂する爆弾が

我々の旗がまだそこに在るのを夜を徹して証明していた

おお、あの星条旗はまだたなびいているだろうか

自由の大地であり、勇者の故郷でもある場所で


2番

濃い霧の岸辺にかすかに見える

恐れおののき息をひそめる敵の軍勢が

切り立つ崖の向こうで

気まぐれに吹く微風に見え隠れする

朝日を受け栄光に満ちて輝きはためく

星条旗よ、長きに渡り翻らん

自由の大地であり、勇者の故郷でもある場所で


3番

戦争による破壊と混乱を自慢げに断言した奴等は何処へ

家も国もこれ以上我々を見捨てはしないと

彼等の邪悪な足跡は彼等自らの血で贖われたのだ

敗走の恐怖と死の闇の前では

どんな慰めも傭兵や奴隷達の救いたりえず

そして勝利の中で星条旗は翻る

自由の大地であり、勇者の故郷であるその場所で


4番

おお、自由の民が立つ時、常にこうであれ

愛する家と戦争の荒廃の間で

勝利と平和に祝福された天に救われた地が

国家を創り守りたもうた力を讃えよ

正義の大義がある時、我らは必ず勝利を収めねばならない

そして我々のモットーは「神を信じる」ということ

そして勝利の中で星条旗は翻る

自由の大地であり、勇者の故郷であるその場所で



ボルチモアにある要塞「フォート・マクヘンリー」はアメリカの国歌「星条旗」が生まれた場所





2025年7月9日水曜日

日本人の特性について 伊藤貫氏

 

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日本人の特性について 伊藤貫氏


日本の評論家、国際政治アナリスト、米国金融アナリスト、政治思想家 伊藤貫氏がYouTubeで、「日本人の特性について」を論じていました。

書き起こして掲載します。


日本人というのは、ものすごく権威に対して従順ですよね。権威が好きなんですよ。

今の時代は、これが権威だと言うと、みんながそっちの方向に行く。

明治維新以降は西洋文明の権威に傾注し、

戦争に負けたら、今度はアメリカが権威になって、何でもいいから、みんなアメリカの真似をするということになった。

という、この見解は、全くその通りだと思います。


政治の世界でも、NO.1の国はアメリカなんだから、アメリカ政府の言い分を全部受け入れるというのも、そろそろ限界に来ていますね。

しかし、残念ながら大局的にものを考える政治家がいません。



寺子屋:驚くべき江戸時代の教育力




日本人の特性について 伊藤貫氏


日本人というのは、ものすごく権威に対して従順ですよね。権威が好きなんですよ。
今の時代は、これが権威だと言うと、みんながそっちの方向に行く。

日本人の家族構造にしても、みんなが自分の意見を持って、それで意見を交換しているというよりも、誰か権威のある人が「こっちの方向に行こう」と言うと、みんな、それに従っていく。

時々ね、僕ね、戦前までって言うか、多分ね、1980年まで日本人と言うのは、日米戦争には失敗したけれども、明治維新以降、西洋文明を自分たちで、いち早く取り入れたのは、アジアの中で我々日本人だけだったと思っている。

要するに、確かにその通りで、1870年代から西洋文明を真似するスピードの速さは、他のアジア人には、とても真似のできない速さだった。

しかし、残念なことに、当時のヨーロッパは、イギリスが帝国主義で、ドイツが軍国主義でした。そうすると、日本人はみんなイギリスの帝国主義とドイツの軍国主義を真似するということになった。

それで、戦争に負けたら、今度はアメリカが権威になって、何でもいいから、みんなアメリカの真似をするということになった。

だからね、ちょっと変な言い方だけど、僕はアメリカに長く住んでいるんですけど、あまり、アメリカ人の真似をしないんですよ。

それでね、アメリカに長く住んでいる僕よりも、東京に住んでいる日本人の方が、よっぽどアメリカ人の言うことを真似したがる。いつも何でこんなにあれなんだろ。

結局、僕が感じたのは日本人の多くは、今はアメリカがNO.1だと思っている。
とにかくNO.1の国はアメリカなんだから、それを受け入れればいいんだと。

という形で、ものすごく素直にアメリカの流行とか、アメリカ政府の言い分を全部受け入れる。

だけど、僕から見ると、そんなに、疑いもせずに、アメリカ文明のあり方とか、アメリカの経済運営とか、アメリカの軍事政策とか、そういうのを全部真似するのは、僕はおかしいと思う。

日本人ぐらい、ハーバード、ハーバードって言いたがる。
外国の権威が好きで、外国の権威を真似したくてしょうがない。

アメリカでは表面的には民主党がインテレクチャルオーソリティ、知的な権威というものを握っている。

それに比べて共和党は教育レベルの低い人たちと思われている。

アメリカでは、日本から見ると、民主党の知識人、民主党系の学者が、知的なリーダーシップを握っているように見える。

本当の問題は、最近60年間、アメリカの大学教育だけではなく、高校の教育も、どんどん落ちてきて、アメリカの教育界全体が、すごく教育レベルが低くなってきているということです。



江戸のデザイン 装丁は横尾忠則氏




国際政治アナリスト、米国金融アナリスト、政治思想家 伊藤貫氏

伊藤 貫(いとう かん、1953年〈昭和28年〉- )は、日本の評論家、国際政治アナリスト、米国金融アナリスト、政治思想家。アメリカ・ワシントンD.C.在住。東京大学経済学部卒業。アメリカのコーネル大学で国際政治学と外交史を学ぶ。姉は政治家の山谷えり子。東京都出身。ワシントンD.C.のビジネス・コンサルティング会社とロビイスト事務所で国際政治・米国金融アナリストとして勤務。『フォーリン・ポリシー』『シカゴ・トリビューン』『ロサンゼルス・タイムズ』『正論』『Voice』『週刊東洋経済』等に、外交評論と金融分析を執筆。CNN、CBS、BBC等の政治番組で、外交・国際関係・金融問題を解説。ワシントンに30年間在住。著書に『自滅するアメリカ帝国』(文春新書)、『中国の核戦力に日本は屈服する』(小学館101新書)などがある。








2025年7月7日月曜日

日本人の価値判断について 伊藤貫氏


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日本人の価値判断について 伊藤貫氏


日本の評論家、国際政治アナリスト、米国金融アナリスト、政治思想家 伊藤貫氏がYouTubeで、「日本人の価値判断」を論じていました。

書き起こして掲載します。


個人的にも、明治維新の功罪について、何か引っかかるものがありました。

奈良時代から江戸時代までの日本人の思考力と価値判断が、

明治維新から失われてきたという見解は、その通りだと思います。

戦争に突入してしまった原因も、欧米諸国の経済技術と軍事技術導入を優先し、

大事な日本の価値判断能力による、思考を失ってしまったことによるものだと感じます。





徳川最後の将軍 慶喜




日本人の価値判断について 伊藤貫氏


日本人の価値判断っていうのは、奈良時代から江戸時代まで、仏教と漢学(中国の古典、特に高愛、孟子、韓非子、荀子、孫子)を学ぶことによって考えが深くなったと思う。

しかし、明治維新から失敗してきた。


明治維新で、薩摩と長州は、国学思想、水戸学を用いた。その国学思想、水戸学は、仏教と中国の古典、漢籍、漢学に関して非常に侮蔑的である。

仏教はいらない、廃仏毀釈だという考えである。それらはインドから借りてきた思想だからいらないという考えだった。


漢学は漢心(からごころ)だ、我々は大和心を大切にしていればいいという考え。
せっかく日本人というのは仏教と漢学と日本的な価値観(武士道、天皇制、万葉集)の3つをコンビネーションにして日本人の思考力を深めていったのに、明治維新というのはこの二つを棄て、欧米諸国の真似をすればいいと言い、欧米諸国の経済技術と軍事技術を猿真似することばかりをやり始めた。


それで日本人の倫理規範は何ですか?ていうと、侍だと、サムライ精神だと、あと天皇陛下万歳とか、それだけになって日本人の形而上的な思想能力がどんどん浅くなってきた。


それで、それをやってアメリカとの戦争に負けたでしょう。
そうすると今度はアメリカニズムで、何でもいいからアメリカの真似をすればいいんだと。
しかし、アメリカって国は困ったことに、ヨーロッパよりもはるかに哲学的じゃないです。


アメリカ人は哲学が嫌い。アメリカ人は、「プラグマティズム」と「マテリアリズム」の国だから、物資主義とか、拝金主義、お金と物質が欲しいと。


そうすると過去80年間は、アメリカのプラグマティズムと拝金主義、マテリアリズムを表面的に、これまた一生懸命、猿真似すればいいと、そういう事をやってきた。


だから、明治維新で日本人の思考力と、深い思考力というのを半分くらい壊して、それでアメリカとの戦争に負けて、今度はアメリカの安っぽい、すごく表面的なマテリアリズムと、それからプラグマティズムを猿真似して、とにかく役にたつことをやればいいんだと。で、結果を出せ!結果を出せ!と。結果の問題なんだと。


こういう非常に単純な価値判断能力しか持てなくなった。


それで、そういう非常に浅い価値判断能力しか持たなくなったので、日本が今のような窮状に追い詰められている。


どうしようもないほど厳しい地政学的な環境に追い詰められてきたんですけれど、それでも自分たちは、どうしたらいいのか、今の日本にはどういう軍事能力が必要なのかと、そういう事を自分たちで議論できなくなってしまった。


そうすると、とにかく、日本人のものを考える能力が、ワシントンから見ていると、完全に麻痺しているようにしか見えない。


ウクライナ戦争をやったのは日本の国益にとって明らかにマイナスです。
ウクライナ戦争は日本にとってマイナスだったと、保守派の新聞が書けない。
ウクライナ戦争頑張れ、ばかり。何でこんなバカな戦争をやったんだと言うべきです。


だから、日本政府としては、アメリカ政府に一刻も早くウクライナ戦争をやめてくれと、言うべきなんですけど、日本の外務省はそういう風には言っていない。





日本の評論家、国際政治アナリスト、米国金融アナリスト、政治思想家 伊藤貫氏


伊藤 貫(いとう かん、1953年〈昭和28年〉- )は、日本の評論家、国際政治アナリスト、米国金融アナリスト、政治思想家。アメリカ・ワシントンD.C.在住。東京大学経済学部卒業。アメリカのコーネル大学で国際政治学と外交史を学ぶ。姉は政治家の山谷えり子。東京都出身。ワシントンD.C.のビジネス・コンサルティング会社とロビイスト事務所で国際政治・米国金融アナリストとして勤務。『フォーリン・ポリシー』『シカゴ・トリビューン』『ロサンゼルス・タイムズ』『正論』『Voice』『週刊東洋経済』等に、外交評論と金融分析を執筆。CNN、CBS、BBC等の政治番組で、外交・国際関係・金融問題を解説。ワシントンに30年間在住。著書に『自滅するアメリカ帝国』(文春新書)、『中国の核戦力に日本は屈服する』(小学館101新書)などがある。










2025年7月3日木曜日

初夏の花 疑宝珠、合歓木、紫君子蘭、紫木蓮、紫陽花、凌霄花

 

初夏の花

散策路、帷子川、親水緑道の初夏の花

疑宝珠、合歓木、紫君子蘭、紫木蓮、紫陽花、凌霄花


ちょっと風が強い初夏でした。





疑宝珠 自宅庭




疑宝珠 自宅庭




合歓木 帷子川河川 




合歓木 帷子川河川 




合歓木 帷子川河川 




紫君子蘭 親水緑道 




紫君子蘭 親水緑道 




紫木蓮 散策路 




紫陽花 自宅庭 




紫陽花 自宅庭 




凌霄花 散策路 




鎌倉妙本寺の凌霄花が懐かしいですね。



鎌倉妙本寺の凌霄花









短歌 夏兆すころ(なつきざすころ)

  短歌 夏兆すころ 2017年5月に帷子川河川沿いを歩いていた時に詠んだ1首です。 夏兆す朝の河原をゆきゆけば香にながるるはブオブオの蛙 短歌 夏兆すころ(なつきざすころ) 2017/05/24制作 ■夏兆すころ 夏が兆すころに、河原をぶらぶらと歩いていると、 牛蛙のブオブオと...