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異国襲来と令和の日本の危機
文芸批評家・新保祐司
鎌倉歴史文化交流館「東アジアと鎌倉の中世」ポスター |
文芸批評家 新保祐司氏 |
新保 祐司(しんぽ ゆうじ、1953年5月12日 - )は、日本の文芸評論家。宮城県仙台市出身。1977年東京大学文学部仏文科卒業。元都留文科大学副学長・教授。キリスト教や日本の伝統・文化に理解を示す。自らの評論を「文芸的な評論」とし、詩的な文章をつくることを主眼としている。2007年度の第8回正論新風賞を受賞。2017年度の第33回正論大賞を受賞した。
「異国襲来」と令和の日本の危機
文芸批評家・新保祐司
過日、街中を散歩していたら、一枚のポスターが眼に飛び込んで来てぎょっとした。それは、大きな波がなだれ込んで来るように描かれていて、その波立つうねりは、濃い紺、緑がかった青、濁った白で彩られている。そして、「異国襲来」という白い4文字が大きく、上の方に異国、下の方に襲来と書かれている。
モンゴル襲来から750年
何かアクチュアリティのある感覚に襲われて近づいて見ると中央に「文永の役750年」とある。そうか、モンゴル襲来の1回目の文永の役は、西暦で言えば1274年であり、今年はそれから750年に当たる年なのだ。ちなみに2回目の弘安の役は、7年後の1281年である。この記念の年ということで、鎌倉歴史文化交流館(神奈川県鎌倉市)で「東アジアと鎌倉の中世」と副題されたこの企画展が開かれているのである。
一度気がついてみると、このポスターは、街のあちこちに貼られている。散歩していて、その前を通ると歴史と現在のつながりに頭がいって緊張感がもたらされる。「異国襲来」とあって、普通に言われるモンゴル襲来とは書かれていない。それがかえって、この異国がどの国か示されず、複数かもしれないという不安をもたらす。日本の危機についてあれこれ考えていると、遠い将来、我々が生きている現代を振り返って「異国襲来 東アジアと令和の日本」というような企画展が開かれることがあるのではないかという想像に引きずり込まれそうになった。
企画展の展示の中で、円覚寺のことが触れられていた。この鎌倉五山第2位の古刹(こさつ)は、弘安5(1282)年、鎌倉幕府の執権、北条時宗によって元寇(げんこう)の両軍の戦没者追悼のために無学祖元を招いて創建された。私は、2年ほど前から円覚寺の中にある弓道場に毎週通っているが、北条時宗の廟所(びょうしょ)に参ったことはなかった。時宗は、元寇の3年後、32歳の若さで死んだ。この危機に処する緊張がどれほどのものであったかが察せられる。日露戦争の後、1年も経(た)たずに児玉源太郎が54歳で、1年半で立見尚文が61歳で死去したことが思い出される。
伝統と秩序が保持され
この日本の危機を救った執権に敬意を表したくなって冬晴れの昼下がり、円覚寺の塔頭(たっちゅう)、佛日庵にある霊廟に足を運んだ。そこには、北条時宗を詠(うた)った昭憲皇后の御歌「あだ波はふたたび寄せずなりにけりかまくら山の松の嵐に」が書かれた額がかけられていた。
この750年前の「異国襲来」を撃退したことは、日本文明にとって決定的に重要なものであったことに改めて思いが到(いた)る。ハンチントンは有名な『文明の衝突』の中で、世界には文明が8つあり、西欧、中国圏、イスラム、ヒンドゥー、スラブ、ラテンアメリカ、アフリカ、そして、日本だとした。他の文明が複数の国で構成されている中にあって、日本だけは一国で一文明の栄光を持っている。
13世紀のモンゴル襲来は、近代以前における日本文明の最大の危機であった。当時、モンゴルは、東方だけではなくユーラシア大陸の大半を席巻していた。ポーランド・ドイツ連合軍とモンゴル軍が激突し、連合軍はいとも簡単に敗れる。その後、モンゴル軍が南下してオーストリアのウィーンの郊外まで迫ったとき、モンゴルの第2代皇帝が死去し引き揚げた。
もし、このとき皇帝の死がなければ(これも、「神風」と言えるかもしれない)、ポルトガルまで進軍してユーラシア大陸全土を制覇することもありえたのではないかと想像される。そうなれば、西ヨーロッパの文明の在り方は全く変わっていたはずである。日本がモンゴルを撃退し、西ヨーロッパが侵略を受けなかったことで、ユーラシア大陸の西の狭い地域と東方の海に浮かぶ日本列島で伝統と秩序が保持されたのである。
国難の到来に備え
ユーラシア大陸の中央部では、国が興っては滅亡するという荒々しい歴史が繰り返され、文明の断絶が普通であった。しかし、西ヨーロッパでは、ローマ帝国の遺産の上にキリスト教文明が展開され、日本では、義を重んじる武士道が深化していったのである。
日本がG7に入っているのは、単に経済の規模によるだけではあるまい。西ヨーロッパと日本の文明が似ている面があるからである。この相似は、古くは、梅棹忠夫の『文明の生態史観』に説かれていたことである。司馬遼太郎は『「明治」という国家』の中で、「明治の精神とプロテスタンティズムが似ている」ことを指摘し、「もともと江戸日本が、どこかプロテスタンティズムに似ていた」のだという卓見を述べている。
北条時宗の霊廟に参った後、円覚寺の境内を歩きながら、昭憲皇后の御歌を思い出していた。「あだ波」が「ふたたび寄せずなりにけり」と言えた時代が、ついに終わることがありうる国難の到来に備えなければならない。栄光の日本文明を守ることが、「異国襲来」から750年後の日本人の使命だからである。(しんぽ ゆうじ)
鎌倉歴史文化交流館「東アジアと鎌倉の中世」ポスター |
モンゴル襲来から750年。
750年前の「異国襲来」を撃退したことは、日本文明にとって決定的に重要なものであった。
日本だけは一国で一文明の栄光を持っている。
考え深いですね。
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