最近、新聞コラムで学んだこと
よみがえらせたい和の心
裏千家前家元・千玄室
裏千家前家元・千玄室氏 |
千 玄室(せん げんしつ、1923年(大正12年)4月19日 - )は、茶道裏千家前家元15代汎叟宗室。斎号は鵬雲斎。若宗匠時代は宗興。現在は大宗匠・千玄室と称する。「玄室」の名は、裏千家4代目の仙叟宗室が宗室襲名前に玄室と名乗っており、これに因んで12代直叟宗室が隠居した際に玄室を名乗ったことに由来する[要出典]。本名は千 政興。京都大学大学院特任教授・大阪大学大学院客員教授として、伝統芸術研究領域における指導に当たるほか、外務省参与(2019年3月31日まで)、ユネスコ親善大使、日本・国連親善大使、日本国際連合協会会長、日本オリンピック委員会名誉委員、日本会議代表委員、日本馬術連盟会長、京都サンガF.C.取締役などを務めている。
よみがえらせたい和の心 裏千家前家元・千玄室
癸卯(みずのとう)と年が改まって1カ月がたとうとしているが、世の中は相変わらずの様相で人々の生活も慌ただしい感が否めない。
「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点(た)ててのむばかりなることと知るべし」と千利休が申したと言われるが全くその通りで、日本人の日常茶飯事と一体化しているものであるから、慌ただしい中でも一服召し上がっていただきたいものだ。
茶は室町時代の中頃より一般的な飲み物となった。武家には足利将軍の『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』にあるような儀式的格式を備えた茶の湯があり、庶民でも寺院の広間を屛風(びょうぶ)で囲むだけで小座敷風の雰囲気を作り出し、茶を点て楽しんだ記録がある。殿中で行われるような儀式的格式の茶の湯は、台子処(だいすどころ)を構えて床飾(とこかざ)り棚飾(たなかざ)りと格式ばったものであった。中国から輸入された高価な茶器、即(すなわ)ち茶碗(ちゃわん)や抹茶を入れる茶入(ちゃいれ)、象牙の茶杓(ちゃしゃく)を唐物(からもの)と呼んで用い、中国の名僧の墨蹟画(ぼくせきが)を掛物(かけもの)にし、胡銅(こどう)や青磁の花入(はないれ)や香炉などを取り入れている。
ただ、利休は唐物だけではなく、朝鮮の高麗物(こうらいもの)も否定せず、それらが融合された和の様式を創り出した。即ち国焼(くにやき)と呼ばれる美濃や備前などを奨励し、その中で赤茶碗、そして侘(わ)びを表現する黒茶碗を生み出した。和と漢の美術工芸の総合性を創り上げたのである。
一碗を以(もっ)て和漢の融和を図り、茶道という道を創ることで、戦国の世にあって織田信長や豊臣秀吉らの権力者に、権力権勢を沈静化する文の力を説いたのが利休だと考えることもできる。信長が武将たちに茶会開催を許したり、茶道具などを下賜したりすることで政治的に統制した「御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)」は、文武両道こそが国を安定させ、ひいては他の国との絆も結べることを、日本の権力者に教えたと言っても過言ではあるまい。
茶道は思想的には儒教、道教そしてそれ以前にもたらされた仏教の影響を受けている。これらはいずれも元は外国の思想哲学だが、以前にも書いた通り時代を経て国風化したものであり、外国から隔絶された日本という島国は、その特性をいかして独特の「情」の世を生み出した。その独特の文化芸術をいかし、世界に和の心を広げていくべきではなかろうか。
私たちは、単にこの体が日本に生まれたから日本人と自覚するのではない。「からだ」という言葉の語源は「殻(から)」に接尾語の「だ」が付いた語といわれる。平安時代の和文には見られず、単に「から」が用いられ、室町以降に一般的に「からだ」が用いられるようになった。
五節句の一つに「上巳の節句」がある。今では雛(ひな)祭りとして3月3日に祝う女子のお祝いと思われているが、本来は災厄を払う節句である。紙で作った人形に邪気を払う願いを込め川に流すのである。今も「流し雛」の風習が残っている地方もあるが、単に紙で作った「から」に願いを吹き込むことにより「からだ」になるとの考えであろう。五節句などに込められた昔からの思いを蘇(よみがえ)らせる必要があると思うこの頃である。 (せん げんしつ)
■日本にしかない、和の心を広げていく。非常に大事なことですね。
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